言の葉の書き上げ

書き上げました

木澤佐登志最高!一番好きな志です2(『失われた未来を求めて』が良かったという話)

 『失われた未来を求めて』マジで良かったですね。『ダークウェブ・アンダーグラウンド』や『ニック・ランドと新反動主義』は一般に知られていないヤバイ潮流・思想を紹介するような内容でしたが、本書ではその広範なテーマに渡る語りのキレはそのままに、論考やエッセイで見せていたような著者自身の問題意識がより色濃く出た一冊になっています。各節で気になったところ等を個人的なメモとしてまとめておきます。

・はじめに
 どこから読んでもいい、というのは各節で内容が独立して多岐に渡っているということで、とてもわくわくします。それがどのようにつながって行くのか、喪失した記憶の喪失、この二重の喪失の中に眠っているものは何なのか。

・chapter 1-1 資本主義リアリズムと失われた未来
 ルイス・キャロルの「黄金色の午後」には気象記録との齟齬があった。この美しく強く心をつかむ導入の現実感を揺るがすような効果は、あとがきの『チェンソーマン』『輪るピングドラム』で再演されることになります。認識を揺るがせるようなショックを与えてリアリズムの外へと読者を連れ出すこの語りは、あえて悪く言えば陰謀論や歴史修正、その他カルトやスピリチュアル等々の手口にも似ていますが、本書の目的はそれらの二の轍を踏まずにいかにして資本主義リアリズム以外の世界を見るか、ということで、そのための奇妙な旅路がここから始まります。

・chapter 1-2 資本主義リアリズムの起源
 サイバーシン計画!!!かっこいい!資本主義リアリズムは絶対のものではなく、暴力によってもたらされたひとつの状況に過ぎない。WEB上で本節を初めて読んだときの感動は本当に大きかったです。読んだ直後自分の中ではサイバーシン計画もう一回やってみるべきでは、ぐらいの勢いになってましたが、ストライキ破るのに使われてたりもするし運用によってはAIに生産性を監視されるコテコテのディストピアにもなりそうで即座にオルタナティヴになるものではなさそう。それでも、資本主義リアリズムを相対化してその絶対性の欺瞞を破るためのひとつの確かなエピソードではあります。

・chapter 1-3 未来を幻視する――失われた連帯のために
 ここで紹介される『ジョーカー』の二面性、虚ろな哄笑とともに深淵へと落ちていく孤独な人物と、持たざる者たちの期待を託されたカリスマは、喪失と希望によって構成された本書の読み方とも重なりそう。それでも『ジョーカー』のような虚ろさを抱えつつ先を見据えて超えていくと信じたいし、本書はそのための足取りであると思いたい。マーク・フィッシャーと『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』。既に終わった、汚れたものとしてのカウンターカルチャーLSD。喪失と希望。

・chapter 1-4 カウンターカルチャーの亡霊――祓われた六〇年代
 差異化の欲求のための、消費としての反逆、商品としてのオルタナティヴ。その堕落を目にしてもなお自由を求めることを止められない、亡霊のような憑在論的メランコリー。そこにつながるもの、リアリズムへ異議を申し立てる未来の声として言及されるものは、グレタ・トゥンベリらZ世代たちの声で、あまりの眩しさに驚きます。

・chapter 2-1 マーク・フィッシャーと再魔術化する世界
 「反脱魔術化」という単語の意味はWEB連載を追っていた時はピンと来てなかったんですが、改めて前節と続けて読むとわかりやすかったです。現状追認にならない形で生の意味の再獲得を目指すこと。ここには明確に現状の世界、社会にNOを突きつける意思があり、すごいです。普段自分が考えているような、資本主義社会は世知辛いから各々ヤバい概念を獲得してやっていきましょう、というようなレベルではなく、社会をどうにかできるくらいのマジでヤバい概念を求めること。闇の自己啓発から闇の社会啓発へ――。

あとこれは本書の内容からは外れるんですが、「再魔術化」の2つの傾向《消費の再魔術化》と《宗教の再魔術化》のうち、本書でメインで取り上げなかった《消費の再魔術化》が気になっています。《宗教の再魔術化》の方が極限までいった世界を描いた小説として酉島伝法『るん(笑)』がマジでヤバいのでお勧めですが、あれの《消費の再魔術化》版を想像すると、商品が際限なくタイアップやモデルチェンジを続けるコンビニの棚や、コンテンツの感想と労働の苦悶が延々と流れてくるTwitterのタイムラインはかなりそれに近いのではないか、と思ったり、『るん(笑)』の空騒ぎのお祭り感が現実の鏡写しに見えたりもします。当然《消費の再魔術化》の意味するところが何なのかはきちんと定義して検討しなければなりませんが。以上、本筋に戻ります。

・chapter 2-2 近代からの逃走――スイスに胚胎したカウンター思想の源流
 陰謀渦巻く中立国スイス。カウンターカルチャーを胚胎した村アスコーナ。20世紀思想の地下水脈たるエラノス会議。ダレスとユングの邂逅。あまりの混沌さに唖然とします。

・chapter 2-3 LSDと知覚の扉――帰郷、あるいは自己変容による革命
 アルバート・ホフマンによって生み出された、現実の複数性を垣間見る装置としてのLSD。一方で、ダレスの「MKウルトラ計画(洗脳)」やリアリーの「再刷り込み(啓蒙)」では個人の変革装置として用いられる。
P139の引用部について、環境から分離した「西洋の運命的ノイローゼ」はだいたい脱魔術化のことと言っていいと思います。ここでホフマンの言う「望みの薄い継ぎ当て作業」は環境保護政策についてですが、本書の文脈ではそれは世界に合わせて個人を変え続けること(再魔術化)を意味し、そうではなく「自我を包括したより深い現実の実存的体験」による治癒を目指すことをホフマンは志向します。なぜそれが反脱魔術化となるのかは、つまり現実の複数性を垣間見ることにより異なる世界の在り方、自我と外界の結びついた在り方を構想する自由を取り戻すことができるから、そして幼少期に既にそれを知っていたホフマンにとって、もしくは過去にユートピアの幻想を持っていた人類にとってそれは「帰郷」となる、ということでしょうか。自我と外界の結びついた在り方というからにはそれは自己の在り方であると同時に世界の在り方でもあります。

・chapter 2-4 霊的資本主義――スピリチュアル、自己啓発、スマートドラッグ
 ただ自分を特別なものとするため、自己変革のために用いられるドラッグ。そこにはもはや世界を変革させる「治癒」としての側面はありません。
ところで最後のエラノス会議(反脱魔術化思想の源流)とエサレン研究所(再魔術化の発展)がつながる話、反脱魔術化と再魔術化を分けたい本書の論旨からするとつなげない方がいいのでは、とも思うんですが、エピソードとして面白いですよね。このように本書は莫大なリサーチを基にいろんな要素をめちゃめちゃにつなぎまくっていて、その無邪気さの一方で、その繋がり方とは別に各要素個別の分析がなされていく、という風に文章が進められており、それによって本書は複雑で面白いものになっていると思います。本書のカバー下が陰謀論のQマップなのもこういうつなぎまくる面白さ、ヤバさがフィーチャーされていると思います。

・chapter 3-1 反知性主義の起源を求めて――大覚醒、食中毒、集団幻想
 反知性主義の起源18世紀「大覚醒」にはLSDの影があった!!ここでも出てくるのかと、もう笑うしかないです。

・chapter 3-2 蜂起を生きる――カント、フーコー、フィッシャー
 フーコーの励ましがアツいです。歴史に属しており、かつ歴史を逃れる「超歴史的」なものとしての蜂起。反脱魔術化の歴史的な位置づけが確認され、その系譜には神秘主義者の精神も見られます。

・chapter 3-3 議事堂の中のシャーマン――虚構の時代の陰謀論
 Qアノンも取り上げられる本節なんですがエピグラフの「鏡の中のアリス」はユリア・エブナー『ゴーイング・ダーク』(解説は木澤佐登志)のQアノンを取り上げてる8章のエピグラフと同じところですね。
世界のディズニーランド化、ARG、大きな物語陰謀論、レッドピル、自己啓発、マルチビジネス、スピリチュアルと、目まぐるしく角度を変えながらQアノンを分析していて、ヤバいです。

・chapter 3-4 可塑的な〈世界〉へ――資本主義リアリズムからの解放
 「自己の可塑性を世界の可塑性に向けて押し開くこと。自己の可塑性ではなく、世界の可塑性こそを信じること。」WEB連載ではここを最終回としてマジで感動していたので、書籍化に当たって更にもう1章踏み込まれるのに驚きます。
ここの脳深部刺激療法は神経外科の科学技術の話であり、先ほどのchapter 2-4もそうでしたが、本書における《(宗教の)再魔術化》の批判は、単に科学的なエビデンスの有無を問題にしているわけではありません。科学にせよスピリチュアルにせよ世界に合わせて個人を変えようとし続ける魔術的自立主義こそが問題であり、だからこそ自由意思で頭に電極を埋め込めばすべて解決、とはせずに、異なる世界の在り方を模索する必要があります。

 すみません再び本書の筋を離れて酉島伝法の話がしたいんですが(酉島伝法最高!一番好きな法です。)、酉島伝法は短編「皆勤の徒」を現代版『蟹工船』をイメージした極限労働のインスタレーションとして書いており、「皆勤の徒」以外では「金星の蟲」でも見られる酉島伝法による異形の労働社会のイメージは、たとえばカフカが『変身』で主人公グレゴールだけを虫に変身させたのに対して、むしろこの労働社会そのものが異形の怪物的なものであると告発する効果があると思っています(次節の「転送による疑似健常者」としての姿を暴くような)。社会が異形だからこそ、その中で働く主人公は異形の存在にさせられてしまう。先ほどの『るん(笑)』もそうですが、酉島伝法の諸作と木澤佐登志の諸論考は、ぜんぜん違うジャンルではあるんですが自分の中ではかなり問題意識、世界の見方が通底しており、重要な位置づけにあります。こういう現代の労働環境についての問題意識、想像力の本を色々読んでみたいんですが、他に書かれている方っているんでしょうか。「失われた~」の参考文献を一つずつ漁ってみるのが近道でしょうか。労働ホラーアンソロジーとかあったら読みたい。労働ホラーといえば太田忠司『猿神』も結びが社会批判的ではないんですけど過酷な製造業の話で面白かったです。ああいうのが読みたい。酉島伝法でいえば「皆勤の徒」はかなりハードな幻想文学的作品なのでこのテーマとして読むなら「金星の蟲」がお勧めです(『オクトローグ 酉島伝法作品集成』収録)。長々すみませんでした、また本筋に戻ります。

・chapter 4-1 否定と治癒――逸脱者たちの目覚め
 感情労働、自己アイデンティティのプロジェクト。SNSは各個人のプロジェクトを公開し、加速させる場であるとも言えそうです。ビョンチョル・ハン『疲労社会』は読みたいと思っていたけど忘れていたので、読みます。

・chapter 4-2 痙攣する身体
 中世の魔女狩りから現代の生産性優性思想へ。生産性への抵抗としての、痙攣する身体。

・chapter 4-3 鏡の牢獄――既知と自己の乱反射
 「自由」が決められた選択肢の中の「選択の自由」にされてしまうこと。
 本節で示されるようなアーキテクチャによる世界の果てを書いたものが、SFマガジン2020年8月号の木澤佐登志の論考「この世界、そして意識――反出生主義のユートピア(?)へ」でしょうか。また同じようなアーキテクチャ社会の成立過程における軋轢を描いた作品として小川哲「ユートロニカのこちら側」があります。こうやって似た作品のタイトルが脳内にポップアップしてくること、その無意識さに複雑な気持ちになります。

・chapter 4-4 それでも未来は長く続く
 当事者研究、障害学、クィア理論。マーク・フィッシャーはアイデンティティ政治のやり方を分断を生み出すものとして批判していましたが、本書はむしろ鬱病患者、性的マイノリティ、発達・精神・身体の障害者、逸脱的な女性、等々、社会におけるマイノリティーたちのアイデンティティ政治をつなぎながら現在の世界を取り囲むことによって、新しい世界を構想することを目指しているようにも思えます。つながりをいかにして創り出し、公的空間を立ち上げるか。その先にある〈未来〉。
章題にもなっている降りかかる星、つながりが描く星座のイメージが、非常に美しく印象的です。

・わが複数の人生 ――あとがきに代えて
 みずからの生をひとつの「謎」として生きること。存在しない世界を、複数の世界を生きること。


 すみません書くのがいつまでも終わらないので切り上げます。感想に書き落としはいくらでもあります。何か書こうとして読み返すとページをめくるごとに思いもしない話題が広がっていて途方に暮れてしまう。DJプレイのように縦横無尽に独自の文脈を紡いでいく本書の語りは、自分にとって非常に楽しいものであり、真に迫るものであり、豊かなものでした。過去にうつ病と診断され今を生きている一人の人間として、この本を読めたことを本当に嬉しく思います。自分自身が何かの〈未来〉を見ることができるのか、それとも安易な再魔術化を得て納得するのか、何も得られず渇いて死ぬのかはわかりませんが、それでも本書を読んで反脱魔術化の〈未来〉を垣間見たことは、今この瞬間に、もしくはいつかの失われた過去の瞬間に、そしていつかの〈未来〉の瞬間にとって意味のあることでした。

 SFマガジンで連載中の「さようなら、世界〈外部への遁走論〉」も本書とはまた異なる人種問題等の切り口で「他の世界」の検討が行われていて隔月の楽しみになっています。このテーマでまだこんな引き出しがあるのか!と驚かざるを得ません。こちらの書籍化もいつかあるんでしょうか。楽しみ。

以上