言の葉の書き上げ

書き上げました

「汝ら、すべてのゾンビたちよ」が凄い良かった

「第4回百合文芸コンテスト」SFマガジン賞受賞作『汝ら、すべてのゾンビたちよ』(作:カスガ)を読みました。とても完成度が高く、感動的で素晴らしかったです。百合SFの傑作です。

 

私が読んだのはSFマガジン版ですが、ネット版のリンクを貼っておきます。15,000文字の短編です。

t.co

 

以下はネタバレです。






 本作はユカルが7年未来からタイムトラベルしてきた自分自身(「先輩」)に恋をする物語です。「先輩」のつれない態度にもあきらめずに家までついて行ったユカルは、「先輩」と同棲している「先輩」の「先輩」、14年後の未来の自分と出会います。そしてそのさらに「先輩」がすでに他界していて、14年後の「先輩」、つまり自分にはもうあまり時間が残されていないことを知ります。

 過去へのタイムトラベルによるパラドクスの解消については、本作ではパラレルワールドが創造されるのではなく、過去は改編できないという因果律の絶対性が存在しています。過去に行って、もしくは未来から教えてもらって知っている出来事を変えようとしても、失敗や勘違いによってうまくいかない。

最後、14年後の「先輩」ことウタノさんのセリフはこの物語を照らす光のようです。

“「――でもね、わたしはこれが最良の結末だったんだって思ってる。わたしは愛する人と最期まで寄り添えたし、愛する人に最期まで寄り添ってもらえるんだから。自分が愛した人や、自分を愛してくれた人が、もうどこにも存在しないし、存在すらしなかったという事実を受け入れて、残りの長い人生を孤独に生きていくより、こっちの方がずっといいわ」”

これは歌乃ユカルたちのことであると同時に、「未来」と「過去」を手放すことなく抱えて人生を送る人間の希望のこととも読めます。いつかは死によって消える「未来」をずっと求めながら、いつもじっと見つめてくる「過去」に背中を押されて、どうしようもないこの「現在」を生きている、そんな切なく普遍的な在り方を描いた物語とも言えるかもしれません。


また、本作の舞台となる時代は時空転送技術史における特殊な位置づけにあり、そして本作は過去に来られる人数や知識の制約から、その時代でしか成立し得ない物語となっています。

” 言うなればわたしたちは、あらゆる技術と文化を自力で発見せねばならなかった過去の世紀と、あらゆる技術と文化がすべての時代で共有される未来の世紀との、過渡期に生きているのだ。
 やがては、京都やハワイや南極や月や火星のように、未来や過去も、一般人が気軽に訪れられる場所になるのだろう。だが、今はまだ許されていなかった。
 だから未来や過去へ送られる人物は、昔で言うなら遣唐使か幕末遣欧使節――とまでは言わずとも、エリート中のエリートたちだけであった。
 その選ばれたひとりがウタノ先輩――すなわち、七年後のわたしである。”

 よくあるタイムパラドクスの不思議に、「n日後の未来の自分が教えてくれたことを、n日経った後で過去の自分に教えたら、結局この知識はどこから来たものなのだろう」というのがあります。本作のこの特殊な時代において、時間転送技術の研究者である歌乃ユカルが過去の自分に”時空テンソル膜理論”というキーワードをちらっと教えてしまうところ等を見て、この先の時間転送技術の進歩に歌乃ユカルも寄与する(寄与している?)のだろうかと考えると、何か時間転送技術はこうした過去と未来の因果関係の不思議な絡まりによって進歩していくものなのだろうか、という感じがします。時空転送技術史に刻まれる2人(1人)の歌乃ユカル。いや、もしかしたら、「時空転送技術」というよりは「時間という現象」がもつれだすその黎明期にはこのような不思議な情報のループが生まれる特徴があり、これはそれに巻き込まれた歌乃ユカルという研究者の物語でもあるのだろうか、という感じもします。そうするとこれは歌乃ユカルたちの恋愛を描いたものであると同時に、時空転送技術史の一幕を描いたものであり、時空現象の特殊な振る舞いを捉えたものであるとも言えそうです。

 ただ、歌乃ユカルがどのていど時空転送技術の発展に寄与する研究者なのかは不明であり、そして若くして研究職を辞しているわけですから、これは誇大妄想に過ぎないかもしれませんし、この情報のループに恋愛や早期の死が必ずしも必要というわけではないので、当然やはり本作はこの構造とは別に歌乃ユカル個別の物語となっていると言えます。

「百合というよりもっと普遍的な」みたいなことを言いすぎたのでここからは百合の話をします。

 たとえ未来から来た自分自身同士との会話であっても、自分自身同士だからこそぎこちなくなることもありそうに思いますが、ユカルと先輩の会話にはずっと続けていられそうな軽やかさがあって、そこが嬉しいです。

 全員同一人物の三角関係が回転し続けています。14年後の「先輩」ことウタノさんの死後、7年後の「先輩」とユカルの関係がどうなってゆくのか、想像が膨らみます。当然なんですがユカルのこの先の14年間にはユカルとして「先輩」と付き合う期間と、「先輩」の死後には今度は自分が「先輩」となってユカルと付き合う期間があるわけです。そしてそれぞれの時間の最終的な到達点が作中の「先輩」「ウタノさん」として表れています。このような前代未聞の方法で短編の中に14年間が圧縮されていて、この一切描かれていない14年間の補完を強く想起させられることが、作品の強い印象になっています。本作は最後ユカルが自由な意思の存在を見失い、自らの運命に直面するところで終わりとなっていますが、むしろ未来の二人の存在はこの先の生活の幸福を保証してもいるようで、3人の視点次第でこのシーンの見え方は全く異なっています。そしてそのすべての視点をやがて一人の人物が体験するという点が驚異的です。複数の人物の関係について考えることが一人の人物を掘り下げることになり、もしくはただ一人について考えていると複数人の関係が強く浮かび上がってきます。「わたし」の物語が「わたしとあなた」の物語でもある、この構造の特異さによって読み味の底知れない百合作品になっていると思います。


 本作はある意味普遍的な物語としての側面を持ちつつ、登場人物固有の独特な構成を持った物語でもあるという点で、自分の知ってるところではテッド・チャンの短編「あなたの人生の物語」にも並ぶ傑作であると思いました。あなたの人生の物語」は最後の心境がわかるような気はしつつ正直ついていけなくなったので、こちらの方がすっと入ってきて深く広く沁み込むように感じています。百合だし。

 

以上

 

 

 

 あとウタノさん(32)には事故にあう前に絶対ユカル(18)にまで手を出して先輩(25)との3Pまで持っていってほしいです。もうそのことしか考えられません。