言の葉の書き上げ

書き上げました

重篤患者のインスタレーション、悪夢のテーマパーク 酉島伝法『るん(笑)』感想

ネタバレありです。

酉島伝法は「皆勤の徒」を書く際に現代の『蟹工船』を意識した上で、職場環境のつらさについて“現実に起きているままを書いても、この無慈悲さを実感できるように表現しきれない”と考えて、遠未来の異形の世界で謎の業務に就く人間を描き、作品を極限労働のインスタレーションとして仕上げた。

朝日新聞デジタルのインタビュー

https://book.asahi.com/article/12342600

 

これを踏まえた上で、『るん(笑)』の、特に主人公がどちらも病気である「三十八度通り」「千羽びらき」の2篇は、重症患者のインスタレーションとして読めるのではないかということを考えた。本書の連作の舞台は科学が蔑ろにされスピリチュアルが主流になった日本で、現実にあるものも含めて疑似科学的なもの、根拠の無さそうな怪しげな“生活の知恵”がわんさか出てきて、世界を覆っている。この異様な世界は、しかしある側面においては現実の写し鏡ともなるだろう。それは例えば感染症の流行に対して妖怪の話を持ち出すことしかできないような感覚についてだけではなくて、本当につらい病苦の中においては科学的な医療に触れていても、医師の助言も周囲の励ましもすべてたわごとにしか聞こえなくなるような、そんな状態を疑似体験したものとして読めるのではないかという予感が、本書を読み終えてから到来した。私自身は現在病人ではないため、そんな〈状態〉の想定事態が全く検討外れかもしれないけれど、もしそんな状態があった場合、本書においてその〈地獄さ〉の中核にあるのは、「苦痛についての有効なコミュニケーションの不在」なのではないか、と思う。自分の苦しみが周囲に伝わらないという絶望、そんなことはお構い無しによくわからない祭を繰り返している周囲。そんな圧倒的にやるせない世界の中で、読者だけが主人公の身に起こっている異常をありありと知覚することとなる。

さて、「スピリチュアルにまみれた世界」を「苦痛についての有効なコミュニケーションが不在」のものとして読んだのとは全く逆説的な話になるのだけれど、むしろ現実においてはそのような「孤独な苦痛」をこそ狙って疑似科学的なもの、無根拠な“励まし”による搾取のシステムが触手を伸ばすのではないか、という気がする。重要なのは「苦痛に寄り添うこと」と「苦痛を取り除くこと」の両輪を揃えることで、「苦痛に寄り添うこと」を蔑ろにしているうちに「苦痛を取り除くこと」もできなくなってしまうのではないか、という気がした。では「苦痛に寄り添う」とはどうすればよいのかといえば、そもそも不可能な気がする。緩和ケア等である程度の知見はあるのかもしれなくて、それは非常に重要だろうけれど、一般に苦痛の感覚は非常に個人的なもので深く共感するのは難しいし、また共感されたところで苦痛がなくなるわけでもない。先ほどの〈世界がたわごとに溢れているように見える状態〉の想像は、このような苦痛の間主観性のなさ、〈有効なコミュニケーション〉の難しさに起因している気がする。だからそもそも苦痛を少なくするしかない。人々の苦痛が医療のキャパシティを超えて溢れだしたときに、世界は無根拠な励ましに覆われるのだろうと思う。『るん(笑)』の世界はスピリチュアル以前に「苦痛」に溢れているのだろう。

 

素人の思いつきを開陳するのはこれくらいにして、本書の魅力の話をします。

まずは当然スピリチュアル描写。圧倒的な物量で世界を覆っている。p36“銀河が整列して次元上昇(アセンション)が起きつつある”実在ものも多く有るなかで、オリジナルのものが示しているものが何なのかじわじわ見えてくるのもすごい嫌で、面白い。

そんなスピ描写に負けず劣らずなのが、病人や子供である主人公たちの環世界を映す、地の文の魅力。本書には作品世界のありかたに批判的に目を向けたり、外部的な視点から議論をするような人物は主人公を含めほとんどいないのだけれど、主人公の目前の出来事をただ映した地の文の中に、読者のみがそうした視点の示唆を読み取ることができるものがある。

p20  “車は走ってないが、他人と一緒だと律儀に信号を守ってしまう。”

p86“意識が灯った。体を伸ばそうとするとするが、あらゆる方向から肌に吸いつくように全身を圧され、寸分も動かすことができない。小さな砂粒の集まりにすぎないのに、鉄の鋳型のごとく不動なのだ。その不快感に苛立ちが募るが、やがて諦念が取って代わり、穏やかながら複雑な動きを見せる波のただ行きつ戻りつする様子をぼんやりと眺めるだけになる。”

しかしこうした世界の相対化はあくまでおまけみたいなもので、そこにある知覚の動きがとにかく豊かに描写される。「三十八度通り」の東経三十八度線の砂漠の情景は、高熱にうなされる人間の心象風景として卓越している。あと好きなのが「千羽びらき」冒頭で癌を宣告された本人をそっちのけで夫と医者が言い争っているところの、内心を表すもの。

p93

“そんなことはもういいんです。いまはすこしでも早く休ませて欲しい。四角いフライパンの中で形を整えられる卵焼きみたいに、楽な姿勢を探して身をよじり続ける。”

普通に考えてとてもしんどいシーンなのだけど、かなりかわいい。こうした、鮮やかであったり不気味であったりするチャーミングな比喩表現を交えて、病人の意識の朦朧とした知覚、子供のすぐに気が散っていく知覚についてありありとした描写が展開しつつ、その横には例えばp36“「あの人、蛇が憑いているせいか話が長いものね。」”のようなギョッとするスピ描写が並び、両者譲らずびっちりとページを覆う。

そしてもうひとつ投入されるのが、マジックリアリズム的なもの。高熱によるせん妄か現実か判別のつかないp54乳首取り返し男やp59虫を取りに来る魔女、原因不明のp136兄の異言等。実話怪談的な不気味さのあるこれらの異常現象は読んでいてインパクトはあるのだけれど、先ほどのスピリチュアルと地の文の幻惑の中ではすんなり馴染んで、世界を拡張している。作中スピリチュアルで重要な〈龍〉の正体も、単に汚染された河川というのを超えた異常性の気配がする。ここに来て実在のスピリチュアルは明確に嘘だと言える分、わかりやすくすらある。

更に、ここにシンプルな狂人も現れる。この世界の住民だいたい狂っているのはそうなのだけど、そのなかでも殊更周囲と噛み合ってないような人々で、「三十八度通り」の馬奈木さん(大学院で何をやってたのだろう)やp74タクシー運転手(不器用さが結構好き)、p84電話番(ちゃんと悲鳴を上げてくれるので安心する)等。作品世界中では爪弾きに近い印象のこの人々も、作品全体の異様さに照らして見れば異物にはならず、ただそこにいるそういう人として現れている。作品の異様さの中で、あらゆる〈在り方〉がゆるされているような感じすらある。正気であることは除いて。

このように、可能な限りに異常な描写を、現実の日本に近い舞台で展開していく本作なのだけど、文章そのものはかなり読みやすい。

お化け屋敷にまるごと包まれた遊園地のような、素晴らしい悪夢の一冊でした。

 

余談

他に疑似科学を扱った小説としては宮内悠介の連作短編集『彼女がエスパーだったころ』が良かったです。こちらは科学と非科学のエッジに直面する人々の姿がサスペンスやミステリの形式で叙情的に描き出される。

あと、こちらは読んでないのだけど、雑誌『文藝 2021年春季号』の「闇の自己啓発会 闇のブックガイド」で紹介されていたサミュエル・バトラー『エレホン』という本に、“生まれついた諸々の「境遇」さえ個人の自由意志による選択の結果とみなされる”〈未生界神話〉という疑似宗教によって、完璧な自己責任の体系が築かれた国が描かれているとのこと。スピリチュアルが組み込まれたディストピアという点で、気になっています。

あと闇自己メンバーの木澤佐登志はWeb連載「失われた未来を求めて」第八回 叛乱から消費へ――資本主義的スピリチュアリティ

http://www.daiwashobo.co.jp/web/html/kizawa/08.html

で、社会におけるLSDの位置づけの変遷を辿った後、神秘体験のようなスピリチュアルなものが資本主義的な自己啓発に取り込まれていく霊的資本主義時代の到来を予期していて、こちらも何かつながるかもしれない。

あと、木澤佐登志が『現代思想2019年06 特集・加速主義』に寄稿した「気をつけろ、外は砂漠が広がっている  ――マーク・フィッシャー私論」で打ち出した〈バッドトリップとしての資本主義リアリズム〉のヴィジョンは酉島伝法の短編「皆勤の徒」や「金星の蟲」の異形と化した労働のイメージに通じていると思う。

読んでいるものが偏っている気がする。

 

以上。