言の葉の書き上げ

書き上げました

決められないまま、負荷と選択

 何かを選ぶということは、その何かに価値を見出して手を伸ばすということで、この世界の一部を利用するということを意味する。選ぶことができない人間はこの世界の価値にアクセスできない。

 私は選ぶことができない。全くできないということではなく程度の問題ではあるけれど、それにしても選択をしなさすぎる。他の人と比較してという問題ではない。天秤の逆側にかけられるのは、この世界から自分にかかる負荷の重さだ。疲労、恐怖、苦痛、疎外。それらと自分の選択とが全く釣り合わないまま、負荷があがなわれることなく終わりへと向かうのだと思うと、やりきれない悔しさがこみあげてくる。

 なぜ十分な選択ができないのだろうか。世界が誘ってこないから。目が曇っていてほとんど見えていないから。これほど宣伝にあふれているにも関わらず、それを受け取ることができないから。そんな気力もないほどにいつも疲れ果てているから。確信に足る動機を得られず、twitterを開くことしかできないから。

 なぜ現在の選択では不十分なのだろうか。Twitterを開いて、本屋に行って本を買ってきては山に積み、それからほんの一握りの瞬間、気が向いたら手に取って読む。ゲームや漫画でも同じ。本を読むことは人生に失望している人間の一発逆転の賭けでもあるし、余裕のある人間がさらなる豊かさを求めて行う投資でもある。部屋を占める読み切れない量の本の山が、食べきれない量の健康食品や使い道のない開運グッズ、もしくは情報商材の山であったなら、と考えてみる。他にもっと採るべき選択があるのか、それとも案外ましな選択ができているのかは、この生活の他、外の世界が見えないのでよくわからない。なんにせよ今の選択は不十分だ。それほど負荷は重い。
 なぜこれほど負荷が重いのだろうか。私の負荷が軽くなることはこの世界にとってなんの条件でもないから。自分の負荷を軽減するための選択が十分にできていないから。私の負荷耐久が低すぎるから。天秤が負荷の方に傾きやすくなっているから。
 なぜ天秤は負荷の方に傾くのだろう。天秤が狂って左右の傾きやすさが変わったり、左右を合わせた重さを量るようになったり、全く消えてなくなったりすることがあるのだろうか。あり得ることだと思うし、ずっと起こってきたことでもあると思う。むしろこの天秤はいつも負荷と共に現れるのかも知れない。そしてそのあり方を変える一因は選択なのだろう。だから何度でも選択をしなければならない。天秤の重さを超えて世界の価値にアクセスするために。

 しかし私は選択ができない。何も決められないまま死へと向かっている。負荷と天秤の関係が時間とともに変容していくことを祈りつつ。いつか大いなる選択を引き当てることを祈りつつ。