言の葉の書き上げ

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森岡正博「生まれてこないほうが良かったのか? ―生命の哲学へ!」感想

反出生主義について歴史的な全体像が示されていて、「生まれてこないほうが良かった」という考え方が人類の文化において繰り返し取り沙汰されてきたことがわかり、大変面白かった。

「私は(おまえは)自身のためには生まれてこないほうが良かったのではないか」という問いに対する本書でのひとまずの解答は、ざっくり「生まれてきてないならば良いも悪いも無いのでは」であると言える。この解答は生まれてくることと生まれてこないことを比較しようとする哲学的な試みの誤りを指摘するものである。しかしもっと心理的な次元、「生まれてこなければよかった!」という存在否定の詠嘆を、この解答で解除することはでないため、誕生・存在・人生を肯定することについてはさらに考えていかなければならない、というのが本書の結論であったと思う。

一般的な、心理的な次元での反出生主義者として本書を読んだ場合、最も印象的となるのはブッダを取り上げた第5章ではないかと思う。一切皆苦を前提とし、涅槃へと至りもはや生まれてこないことを肯定しつつ、涅槃へと至ることの可能な存在として生まれたことも肯定できるという仏教のポイントに着目する(本文p195。p212の注71では、“中村元は人間として生まれることは「ありがたい」「感謝すべき」ことだと仏教では強調されていると述べており、興味深い ”とある)。これを元に、誕生と非誕生を比較して優劣を決するのではなく、それぞれが肯定できるか否かという形式にすることで、苦痛のない非誕生を肯定しつつ、誕生を何らかの方法で肯定する余地を残す、という考えが示される。

一方で、ニーチェを取り上げた第6章はハラハラしながら読むこととなった。

以下はニーチェの引用部分

“もし私たちがたった一つの瞬間に対してだけでも然りと断言するなら、私たちはこのことで、私たち自身に対してのみならず、すべての生存に対して然りと断言したのである。”(本書p223)

当然これは全く逆に「たった一つの瞬間に対してだけでも否定するなら、私たちはこのことで、すべての生存に対して否定したのである。」とすることもでき、一般的な反出生主義はこのような考えが含まれているように思う。ニーチェの全肯定的な態度はスタンスの参考として知っておく価値はあるだろうが、この2つの考えは完全に相反するがゆえにどちらを選択するか(もしくはどちらも選ばないか)は“好み”の問題でしかなく、この思想によって反出生主義者の説得はできない。

本書の結論が反出生主義者にとって無効なものになるのではないかと怯えながら読んでいたが、実際は上記のニーチェの思想を著者は全面的には採用しておらず、もっと寄り添った形の包括的な議論を目指しており、安心した。

「生まれてこないほうが良かったのではないか」という不可能な比較を求める問いから、純粋な「生まれてこなければよかった!」という存在否定の詠嘆にも着目しつつ「誕生・存在・人生・世界を如何にして肯定できるか」もしくは「誕生・存在・人生・世界を否定した場合、どうすれば良いのか」という前進的な問いへと進める力が、本書から得られたように思う。以上は私のアバウトな雑感であり、本書の議論とは明確に一致してはいない。

 

本書の内容ではない余談

上のニーチェの肯定・否定のくだりの思想を簡略化して「世界の全てはつながっており、たった一度の肯定は、その対象が小さなものであったとしても実際は無限の世界すべてに対する肯定となる。否定についても同様である。」としてみる。これによって、有限の生において肯定より否定が回数的に多かったとしても、肯定・否定の総量を比較しようとするとどちらも数学的には無限でイコールということになり、比較を有耶無耶にできる。

この考えは数学的な概念の取り扱いが生の価値判断に効いてくる点で面白いけれど、まあパズルの域を出ない。