言の葉の書き上げ

書き上げました

ツインスター・サイクロン・ランナウェイが面白かったので思ったこと全部書く

ネタバレあり、雑記です。

箇条書きの並びにはつながりがあったりなかったりします。凄い話が飛びます。適当にツイートが並べてある、くらいの感じで読んでください。

 

・アニメ化して欲しい、というか、おそらく読者全員の頭の中で既にアニメ化されながら読み進められていて、こんなに映像的でワクワクする表現をできる人がテーマに百合SFを選んでくれていて、とても嬉しい。

 

・天冥の標(著者の前作)は「絶対にこの世に存在しなければならなかった小説」と感じる超大作だったけど、本作は「こんな面白い小説がこの世に存在しうるのか」という別の驚きがあった。

 

・天冥の標の話を少し。

まず、物語の最後に《救世群》の冥王斑が治療されたことで、マイノリティについての物語としての筋を手放したという印象を受け得る。しかしこれはそもそも《救世群》の描写はマイノリティとしてアイデンティティを持つ人々そのものを描いたというよりは、人類の多数派から正統性のある(ように見える)理由によって追いやられている人々を描くことを主題としていて、そうした属性を持ったままの人々と多数派との物語は作品中ですでにじっくり描かれているので、最後に治癒したことについては800年に渡る物語の最後くらいハッピーでええやんけ、という気持ちにもなる。

また、天冥の標は最終的な所感として、再生産的未来主義的な印象を持ち得る。再生産的未来主義とは、ざっくり言えば子供を作って未来を生み出し続けることを最上の価値とする考えで、これはその能力を持たない、それに参加しない人達の存在を疎外するという点でリー・エーデルマンという人が批判しているらしい(全部ネット上で聞きかじった話なので、言及したい人はちゃんと自分で検証するべきです)。しかし実際のところは天冥の標では未来に何も残さず死に行く人々の姿を描くことを裏のテーマとしていて、物語に直接関わりのないビーバーの末路の描写や、10巻PART3p175のオンネキッツの弁舌はそうした意味での目配せでもあって、物語最後の輝かしく圧倒的な未来のビジョンと共に、そこまでに辿ったものを見逃してはならない。

以上は、天冥の標のTCRにつながる部分を確認しつつ、雑に総括しようとする自分を戒めるために書いたものです。

 

(あと、これはまじで関係ない話ですか、現在新型コロナの感染拡大に応じて天冥の標二巻に新カバーを付けて売られており、防疫にまつわる物語としてこれを勧めたくなる気持ちはよく分かるけれど、カバーに書かれている「防疫は、差別ではない。」という文言は、防疫するために人の権利を不当に制限したい人の言い訳にも聞こえるし、あまり良くないと思います。)

 

・さて、TCRに戻ります。天冥の標では最終的な主題とはされていなかったマイノリティのアイデンティティの物語、また圧倒的な再生産的未来主義の光に対して「影」になっていた部分を、TCRでは不可分なものとして全面に押し出していました。マイノリティとして、特例的な女二人での漁が「遊興」として分類されること、周囲の人々が戸惑いという形で二人の関係の存在を拒絶すること。さらに再生産的未来主義批判的な描写としては、300年前にマギリのパートナーであったエダがその身と引き換えに助けたのが「妻子と恋人ある二人の男性クルー」(家庭を担い子供を作る者達)であったこと(ここの「恋人」は男性の可能性もあるけれど)や、その後エダが帰らずに昏魚の父となることでFBBに繁栄がもたらされ、またマギリやシービーがエダを追わず上に残ったことでFBBの以後の発展があったことがあります。性的マイノリティ(女と女の関係)を犠牲にすることで社会の(異性愛者男性達による)繁栄がもたらされていることが批判的に示唆される。そして終盤でエダと話したテラは「戻ればよかったんです!他がどうなろうと!」p307と言い放ち(言った後で謝りはする)、そして深淵を蹴って星の外へとランナウェイ。再生産的未来主義的な歴史によって達成されたものを確認しつつも、そこから離脱していく自由な生のビジョンが提示されています。

 

・ところで、なんでエダは奈落に飛び込んだマギリと会えなかったのか?と読んだ後は思ってたけど、大体自己完結した。

p31でマギリはcc18年にエダを追って奈落に向かっており、p210でもダイオードの話によればcc18年に船団長がシービーに変わっている。終盤のマギリとテラの会話のシーンp309を見るとテラもエダもマギリは上に残ったと考えているけれど、エダに会うためにマギリは本当に降りて来て奈落に消えていたのに、ただ会えてなかったとしたら、悲しい。

多分、実際はcc18年のマギリは昏魚の群影が躍り上がるのを見てその後上に帰っており、しかしマギリの不安定さを皆が確認したことでシービーに船団長が変わった(マギリが譲った?)と考えられる。船団長ではなくなったもののマギリはその後のFBBの発展に貢献した。こっちの方が読み味的にはすっきりする。読み落としがあれば教えてほしい。

 

・男性社会で適応して生きる女性の生きづらさを描いたフェミニズム的な側面も、ジーオン相手のダイオードのカウントとか、いいですね。こうした問題意識を取り入れることは作品がただ「啓蒙的」で「徳が高く」なるのみならず、普遍的な問題をきちんと取り入れることは作品の面白さの裾野を広げることにもつながると感じた。まあでも丁寧にやらないと炎上するし、雑に入れても作者の主張を聞いてるみたいになってフィクションとして面白くはならないし、作者の技量の高さによるものにも思える。ジーオンって多分従来のアニメの世界[要出典]では悪役であるとしても闊達で老獪な好人物として描かれていたと思うし、こういうアニメチックな世界の雰囲気を保ちつつフェミニズム的な話もやるのは面白いので、できる人はどんどんやっていってほしい。

 

・また少し脱線しますが、日本産のフェミニズムクィア系の(SF)作品って、海外でどう評価されるのか気になるので翻訳してほしいと思うのと、逆に海外にあるそうした作品も紹介してみて欲しいと今思ってて、元々そんなに興味がなかったテーマでも、実作を面白く楽しんだ後では、状況が気になってくる。

自分はまじで全然そういうの読めてないけど、例えば三方行成「竜とダイヤモンド」は元々のドラゴンカーセックスの「変態的な」イメージをスタートにしてジェンダークィアの文脈に乗せて壮快に付き抜けるのがすごい良かった。進撃の巨人(特に30巻)は、女性の苦しみ・それを無視する未来主義への批判が、物語の物凄いカタルシスに乗って現れてきて痛快だった。ああいうのがあればもっと読んでみたいです。(なんだよこのラインナップ……)。

 

・ところで、男性に対する恐怖や苦手意識を根拠に女性が女性に気持ちを向けるタイプの作品は、百合好きには毛嫌いされる傾向がある。(おそらく百合全般に対するクソ雑勘違い批評として「他者への恐怖に向き合わず自分と同質で安全なものを求め、自分の中の本物の欲望(男性に対する欲望)から目を背けている」みたいなのが過去にあったから[要出典])。

本作では、女性の男性社会での生きづらさを確かに描きつつ、一方ではテラとダイオードが互いに向け合う欲望は本物として丁寧に鮮烈に描く。漁のパートナーとして、愛玩的な意味で、その他色々な気持ちを向け合う。単に男性社会の苦痛に対して反目している訳ではなく、二人が自分の中の欲望に基づいて主体的に行動を選択し、共に未来へと向かう物語なのである。欲望の先へと向かい、我が身の苦痛、危険と対峙する。百合かくあれかし。

 

【追記】

本作とは関係ないですが、男に苦しめられてる女が女を救いとするタイプの作品も、まごうことなき百合です。その二人がどちらも異性愛者で二人の関係が非恋愛的非性愛的であっても。あと別に二人が危険に対峙する必然性もない。安全なところで二人で幸せに暮らしてほしい。それでいいです。

 

 

 

・本の帯は青色できれいで、「運命共同体」というワードをフィーチャーしている。読む前は素敵と思ってたけど、作中で出てくるこの単語は二人の関係の説明を棚上げするためのものなので、惹句として何かキャッチーな単語を使いたくての苦肉の策なのだろうと思う。

 

p179

他人じゃなかったら……なんなんだろう。同僚? 友達? 共犯者? パートナー? そのどれにも、ちょっとずつしか当てはまらない。そこに当てはまらない部分が……今ひどくやっかいで、すごく大事だ、とテラは感じた。 「……ひとまずは、運命共同体ですよね」慎重に、荷物を棚に上げる。

 

「共犯者」といえば裏世界ピクニックの一巻p52「知ってる?共犯者って、この世で最も親密な関係なんだって」ですが、こちらにしても空魚と鳥子が親密さを深めていくことを予感させる下りではあるけれど、最新4巻での二人の関係はもはやその言葉のみに収まらなくなっている。「百合」という単語が広く女と女の関係を指して使われるようになったのと同様に「共犯者」「運命共同体」に豊かなニュアンスを付与させることは可能だろうけど、知らない人から見たら誤用だし、意味も軽くなっていきそうで乱用は避けたい。広告やタグ付けの作業で単語レベルを扱う際に、ニュアンスが脱落することは免れない。一言で言えない関係を言うには多くの言葉を尽くすしかない。百合をやるには百合を語らずとにかく百合をやるしかないのだが、わたしは物書きではないので特にやるつもりはなく、ただ自分が既存の作品について語ることには取り落としが多くあることを、覚えておきたいと思う。

 

・転がり込んだ女の家の3Dプリンターでまずフィンドム印刷する女、何?

 これが百合SFか。

 

・短編版を読んだときに言及だけされて謎のまま終わった、ここは長編版の伏線っぽいなと思ってた要素(ゲンドーの奪還隊、パンチするイカ等)が、長編版では伸び伸び枝葉を伸ばして作品世界が豊かになっていたので、良かった。

 

・百合SFアンソロジー「アステリズムに花束を」についてちょっと脱線。こんなに唯一無二の輝きを持った本が本当に発売され得るなんて、という大きな衝撃がこちらでもあったのですが、その末尾を飾った短編が長編としてリニューアルされたことで、あの短編集がまだ続いているかのように感じた。あの本を読んで以来、他の作家が参加していたらどんな作品になってただろうと好き放題想像することがあって、藤井太洋「ワン・モア・ヌーク」では実物が出て来て殴られた感があった(こちらの女は3Dプリンターで女のために核兵器を印刷する)。

「アステリズムに花束を」は私の中ではこれからもその輪郭を保ちつつ拡張し続けるように思う。私の外でも本当に拡張していって欲しい。ぜひそうなって欲しい。

 

・脱線が多くなってしまいましたが、著者の小川一水先生と編集者の溝口力丸さんに大きな感謝を送りたい。あと表紙の望月けいさんにも。とてもいい本をありがとうございます。

 

 

・最後に本当に関係ないですが、TCRの8日前に発売された「やがて君になる 佐伯沙弥香について3」を読んでて、p12の

「私たちが星なら、迫りすぎてどちらも滅びるくらいに近く。」

で、ツインスター!!!ってなってた。

 

以上

 

書きたいテーマに対して自分の文章力が微塵も足りてないので、日本刀を5歳児が振り回すような危なっかしい文章になったと思います。しかし言論の自由があるためこれが公開されてしまう。各テーマでもっと書ける人がもし最後まで読んでいたら、変わりにもっとちゃんと書いて欲しい。こんな馬鹿に適当に喋らせといていいんですか?よろしくお願いします。私は好きにした。