言の葉の書き上げ

書き上げました

とにかくなんでもいいから1万字を目指して

以下の文章は最終的に5000文字を超えたところで完結となった。

一番いいのはなにもかも好きにすることだ。言葉が人を自由にするなら少なくともテキスト上の私は自由である。
ページを開けば意味のある文章が読めると当然のように思っているのは間違っている。曲がり角の先で見知らぬ男に包丁で刺されるように、もしくは正体を知りたいとも思わない何かに遭遇することは十分ありうる。私は今なんでもいいから1万字書くつもりでこれを打っている。普段もなんでもいいからとりあえず80年くらい生きていくつもりで生活をしているので、まあ同じようなものだろう。私は今テキストとして存在しており、ところであまり文章を書くのは好きじゃない。学生時代は原稿用紙を埋める宿題が出たときはとりわけ憂鬱で、改行がうまいタイミングで来て空白で文字数が稼げるたびに喜んでいた。まあいい。他に自由にやりたいこと、気力が湧くようなことがどうにも無い。こんなことしかできないのだ。添削もなにもしないので本当に録でもないことにしかならないだろうけれど、まあやるしかない。
言葉は人を自由にする。こんなのは欺瞞に過ぎないが、まあ実際いろいろできることはある。急に無意味な単語の羅列を始めてもいいし、突然録でもない小説が始まってもいい。とにかく勢いよく書いていかないと1万字はかなり遠い。私は文章を書くのが好きでは無いのだ。そして私は自由なので、老人のように同じ話を繰り返してもいいし、さっき使った単語を容赦なく連発してもいい。なにをしてもよいのだ。妙に前後のつながらない文章を書いてもいいし、私は自由なのでここになんでも召喚できる。どういうことを書いてもよい。私は自由なのだ。内容の無い文章を書くコンテストに参加している訳ではないので、当然もっと意味の密度をあげてみてもいい。何をしてもよいはずだ。私は自由なのだ。もう分かったって?こんなことしか書くことがない。頑張らなければ1万字は遠い。
一万字と言えば、そういえば大学の卒論は7000字程度で出したので、それより長いということになる。大学の講義はそこそこ真面目に前の方で受けて必修単位を落とすこともなかったけど、4年次はもう卒業できればよいかなという感じで、研究室内でも圧倒的に卒論の枚数が少なかった。大学院に行かなかったことを特に後悔はしていない。兄と弟は大学院に行く。剣道の段位をもっているのも兄と弟だけ。車の免許がマニュアルなのも兄と弟だけだ。まあどれもどうでもいいことなのだが。実家の軽トラは私だけ運転できないのは少し困る。まあそれ以外、どうでもいいことだ。
どうでもよくないことを産み出そうとする勢力と、我々は戦わなければならない。我々と書いたものの見方の姿は見当たらない。敵の姿も見えない。完全孤立状態にある。ゆえに私は自由なのだ。本格的に書く勢いが落ちてきて、このままでは到底1万字到達は達成できない。こんなことで時間を使って夜更かしするのは流石に論外なので、止めるか、加速するかの二択になる。ひとまず先に進み続けることにする。前途は多難な空白に満ちている。
進もうにもとにかく方向を決めねばならない。方向を決める前に方向を生み出す必要がある。右がなければ左はない。北がなければ南はない。なんでもいい。とにかく方向を見つけないことには先には進めない。こうして方向を探し回って無為な文字を打ち続けるだけで文字数は前進していく。時計の秒針は毎秒60分の2πラジアンの角速度を保って回転し続けている。かくしてすべては進み続けるのだ。内容がどんどん寝る前の妄言みたいになっていく。文字数が同じだからと言って情報量が同じとは限らないのだ。バイト数とは別に内容の量を測る手法は考案しうるのだろうか。ちゃんと調べればそこそこのは見つかるだろう。
おぞましいくらいに内容のない文章はこの世に存在しうるのであるとここに証明することになんの意味があるだろう。
なにもかもが高速で過ぎ去っていく。すべては手遅れになる。空の色はくすみ、太陽は闇を残して消える。とにかく文字を打ち続けなければ。何も書くことがないのだ。ここに何を配置すればいいのかが全くわからない。とにかく書くことがない。言うことがない。私はテキストとして存在しているので、つまり存在する理由がない。人間の大半なんて存在する必要のないものなのだ。そうではないと否定する人間は人間存在という氷山の海上部分しか見えていない。必要のないものを存在させるには、余剰なスペースが必要になる。すべてがかつかつなとき、必要のないもの達は処分されることになる。こう書くとなにかとてつもなくむごい悲劇が起こったように思えるけれど、注意すべきなのは消えていく物は必要のないもの、文字通りの意味で必要のないものなのだ。本気でこの文章が必要だと考える理由はどこにもない。これはある種のアクティビティであって、無理矢理に意識を動かすことそのものが目的で、後に残ったこれは残滓にすぎない。ここに私がテキストとして存在するとさっき言ったけれど、あれは嘘ということになる。私の本体は別にいる。当然のことだ。あまり言いたくないことを書いているような気がしてきた。私は自由なのだ。話を変えよう。
今は2000字を超えたところで、まだまだ先は長い。確か小説一冊分がだいたい10万字だと聞いた気がするので、一冊の本の1割くらいの分量をいま目指していることになる。短めの短編くらいだろうか。このジャンクの塊をきちんと仕上げられた作品と並べて考えてみてもしょうがないというのはある。5千文字くらいにしておけばよかったと思う。眠たくなったらためらわずに中断もしくは中止することとする。中止になった場合、この文章があなたに読まれることはなかったのだ。今まさにこれを打っているときのわたしの気持ちを想像してみて欲しい。残念ながら私は存在しているのだ。筆者の気持ちを考えろというのは文系について雑語りされるときのスケープゴートだけど、こういう話は結局学校時代を思い出して皆でわいわいやりたいだけなのだと思う。私は常人どもとは異なる人間なので、わざわざ思い出したいとも思わない。だから話には乗れない。その話題がそこに存在しなければならない理由がわからない。さっきの「常人ども」にきちんと冗談のニュアンスがこもったのかどうか、わからない。いまいちな気はするけれど、考えていたら進まないし、なによりもう種明かしをしたのだからどうでもよいことなのだ。
この文章を書いているイメージに、寝間着のままでコンビニに買い物に出掛けるというのがある。社会全体のドレスコードをもう少し下げてみてはどうかと思う。でも実際自分がだらしのない人間に遭遇すればやはり視界からお引き取り願いたいとは思う。どうにもならないけれど、程ほどでやってみるしか無いのだ。今のこれは程ほどの内でかなり破壊的な方だと思う。何を破壊しているのかは、読み手の判断に委ねられるべきだ。とにかく人間は自由なのだ。何もかも自由にできる。言葉の上であれば。こんなのは全部欺瞞だ。
全然スピードが足りない。もっと速くしないと、到底1万字には到達できない。意味のないことを書きすぎたせいで、これから意味のあることを果たして書いていいものか、躊躇いの気持ちがある。しかし私は自由であり、寧ろさらに無意味な方向にドライブすることも可能である。夜の時間が刻一刻と過ぎ去っていく。過ぎ去るものがどれ程の価値なのか、測定することはしようとも思わない。何も希望が無いのだ。そんな感覚がずっと続いている。どうして常時意味のある振る舞いを強要され続けなければならないのだろう。私は自由だ。何もする気が起きない。
何もかも自由にするべきだ。もっと異次元の自由さを求めていく必要がある。鳴き続ける蝉のように。蝉の鳴こうとする意志はその成功的な既決が交尾にある以上性欲に分類されるべきかと言えば、そんなことはないと思う。割り箸を割ろうとする意志のことを食欲と呼ぶのは最早通常の言語使用を逸脱した冗談の領域だと思う。欲望をどこで区分けするべきかというのは、常識に照らしつつ慎重に議論されるべきことだと思う。破壊的な定義を採用して一人でもしくは仲間と一緒に高笑いしている連中は、まあ勝手に楽しくやっておけと思う。まともな議論をする気にもならない。定義のすり合わせ作業は言葉を使った殴り合いになる。私が高笑いする側であることは言うまでもないことではある。言う筋合いのないことを言ってはならないなどというルールはここには存在しないのだ。自由とはそういう意味でもある。
5000文字で止めよう。5000文字ならどうにかなる気がしてきた。意地を張るのはよそう。何もかも自由にするべきだ。ここはそういう空間のはずだ。
晴れた海辺を散歩したい。ゆっくり波の音を聞いて、貝殻の模様をぼんやりと眺めていたい。思いの外強く打ち寄せた波に気持ちをざわめかせたい。もう随分海になど遊びに行ってない。海で遊ぶことの何が楽しいのかわからない。海になど行く必要は全くない。それでも海辺を散歩したい。そんな気がする。
私は私自体としてここにいる。他人への紹介用の「私」ではなく、これ、というのも説明のための言葉なので、これ自体、「自体」として、ここに存在がある。しかしなんの役に立つものでもない。もうとっくに何もかも狂っているのだ。すべては失敗だった。そして失敗することに華々しく成功した。そのようにして存在は続く。いつまでもこれ自体として。絶望的な限界の中で。手の届かない星々に囲み照らされた孤独の中で。わたしはひとりでここにいる。全く必要とされない者として。それゆえ自由な者として。その自由ゆえになんの役にも立たない者として。役を拒絶した者として。それでも存在する者として。自体として。

くす玉が割れると中からはあらゆる災厄が溢れ、止めどなく流れ出てきました。災厄は強い放射能を持ち、美しい人間の姿をしていました。
災厄のうちの1滴はペットショップに入り、一匹のカナリヤに目(に該当して見える部分)を向け、そこからじっと動かなくなりました。
災厄のうちの1滴は火山の火口へと向かい、溶岩の中へ身を投げました。
災厄のうちの1滴は深海で鯨の尾につかまり、闇のなかでぼんやりと上を向いていました。
災厄のうちの1滴は小学校へと向かい、そこにいた邪悪な人間をサーベルで切り殺しました。
災厄のうちの1滴は月へと向かい、クレーターの縁に腰掛けました。
災厄のうちの1滴は発電所へと向かい、巨万の電力を生み出して夜を明るく照らしました。
災厄のうちの1滴は古い教会の中に隠れて、訪れる人々を陰から見つめていました。
災厄のうちの1滴はイチゴのビニールハウスに忍び込み、収穫直前の大粒のあまおうを全部たいらげました。
災厄のうちの1滴はある繁華街の地下にあるバーを訪れて、注文に失敗して恥をかきました。
災厄のうちの1滴は戦地を歩き、瓦礫の下から片腕を失った茶色い瞳の少年を助け出しました。
災厄のうちの1滴は密林の奥地で20人乗りの舟ほどに巨大な鰐に大アゴによって飲み込まれました。
災厄のうちの1滴は舟ほどに巨大な鰐を加速粒子射出攻撃で焼き殺してさらに先へと進みました。その後ろには鰐の腹から出てきたもう1滴の姿がありました。
災厄のうちの1滴は広大な砂漠を宛もなく闇雲に掘り進めて水脈を探していました。
災厄のうちの1滴は他の恒星を目指して宇宙空間を光の速さで突き進んでいました。
たった一年の間活動した災厄たちはくす玉の中へと戻ることになります。強い放射能を持つ災厄によって環境には壊滅的な影響が残り、放射線に耐性を持つ気味の悪い生き物たちによって新たな自然が営まれようとしていました。
くす玉はすべての災厄を飲み込むとぴったりと口を閉じ合わせて回転を始めます。回転はどんどん速まり、それと共にくす玉は色が薄く透けていき、最後には完全に見えなくなります。そよ風ひとつ後には残りません。
くす玉はどこに消えたのでしょうか。それは誰もが自らの内に知ることです。災厄は誰でも、いつでも呼び覚ますことができます。今回くす玉を開いたわたしには特別な力など何もないのです。ただ開こうとするだけで、それは勝手に開きます。あなたの方がもう少し上手く開くことができるのでは、とわたしは思っています。