言の葉の書き上げ

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シュペルヴィエル「海に住む少女」の感想と、宮澤伊織「キミノスケープ」との比較について

 短編集の表題作「海に住む少女」では、大海原にひとつの町が浮かんでいて、少女がひとりで暮らしている。少女は年を取らず、少女の他にはだれもいない町は永遠に元の姿を保っている。食料は棚の中に自然に湧いてきて、少女がジャムを食べても、ジャムの瓶は開封前の状態に戻る。船が町に近づくときは、少女は眠たくなり、町はまるごと海の下に消え、望遠鏡にも見つけられない。暮らしの中で時おり、少女は何か文章を書かずにはいられなくなる。
“「泡よ、泡よ。わたしのまわりの泡よ。もっと硬いものになれないの?」”


 読んでいる間、作品の提示する孤独や理想に深く共鳴しつつ、念頭にあったのは宮澤伊織の短編「キミノスケープ」だった。こちらは突如自分の他に誰もいなくなった世界で、主人公は生き延びて旅をしつつ他の誰かの痕跡を探す、という内容。「他の人がいない町」という共通点の他に、両作とも重要なシーンで「輪回しの表象」が出てくるというのがあり、こうしたつながりからこの2作を比較検討してみたいと思った。

〇人のいない町の恒常性について
「海に住む少女」
・食料は棚の中に自然に湧いてくる。
・誰もいないパン屋に、毎朝焼きたてのパンが並ぶ。
・使ったジャムは元に戻る。
・電気は使える。
・町では時間が止まっている。少女は町から出られない。

「キミノスケープ」
・食品が腐らない。
パン工場のラインは止まっていたが、パンは温かい。
・主人公が使ったもの、動かしたもの、出したごみはそのままになる。
・電気は使える。
・夜の眠りから覚めると、町の様子が変化し、壊れていることがある。崩壊の危険から逃れるため、主人公は移動しなければならない。

 町に人がいないこと、食事や電気といったインフラが完備されていることは共通点として挙げられるが、それぞれ町が「変わらない」「変わる」という相違がある。

〇輪回しの表象について
「海に住む少女」
・少女の部屋のアルバムには、この少女によく似た少女が輪回しの輪を持って写っている写真がある。少女はその写真を見て、写真の中の少女の方が本物のような気がして、居たたまれない気分になる。

「キミノスケープ」
・美術館に入った主人公は、輪回しをする少女が描かれた絵画を見て、その中に短いメッセージが書かれているのを目にする。それは初めて見つけた他の誰かの痕跡だった。主人公はメッセージの書き手に思いを馳せ、絵画をスマホで撮った写真は主人公のお守り、拠り所となる。

 両作品において輪回しを含む表象が、それぞれ「海に住む少女の正体」「メッセージの書き手の存在」という作品の焦点を絞るキーになっている。
一方でこれが主人公へ与える意味は対照的で、「海に住む少女」においてアルバムの写真は少女のオリジナルを感じさせるもので、つまり少女は偽物ということになり、自分の存在に否定的な気持ち、“居たたまれない気分”にさせるが、「キミノスケープ」の絵画は、他人の存在の予感によって自分の存在を確かなものとさせる“拠り所”となる。

(「キミノスケープ」の絵画はジョルジュ・デ・キリコ作「通りの神秘と憂愁」で、無邪気に遊ぶ少女と謎の影との出会いを予感させる作品。この絵画は「キミノスケープ」のこのシーン自体にも合っているが、輪回しの表象を通して「海に住む少女」とも対比的なつながりが生まれていると感じた。ただ、宮澤伊織の念頭に「海に住む少女」があったかは不明で、輪回しがメジャーな遊びなら大した偶然でもない可能性もある。)

〇まとめ
 他に人のいない町という共通の舞台設定から、作品の向かう方向は異なる。
 「海に住む少女」は永遠の恒常性の中で少女の孤独が突き詰められ、その存在は拠り所がなく不確かなものとなる。
 「キミノスケープ」は景色の変化の中で誰かの痕跡という形で出会いが訪れ、主人公の存在を確かなものとさせる。
 孤独を突き詰めるのも出会いの可能性を示唆するのも、孤独についての物語としては必要なアプローチであると思う。それぞれ異なるアプローチで孤独を描く作品が読めたことはとても面白かった。

〇語り手、人称
 余談として、両作品とも人がいない町を舞台にするという特色のせいか、それぞれ独特な語り口となっている。それにより生まれる物語との距離感の違いも、作品の読み味を異なったものにしている。

「海に住む少女」
・少女も町も誰にも見つけられないが、語り手はその全てを見ていて、少女の心の中もわかり、町が存在する理由も知っている特権的な立場。物語を読む者へ「あなた」と呼びかける(正確には沖合で物思いにふける水兵へ語りかける)。

「キミノスケープ」
・主人公は「あなた」と二人称で呼ばれ、語られるものは主人公「あなた」の視点、「あなた」の内心のみとなっている。この二人称による語りによって、読み手は主人公への深い没入へと誘われることになる。

 両方とも独特な語り口とは思うけれど、無理に比較しようとすると上手くいかなかったので、この話はこれで終わり。


〇買った時のことについて
 『海に住む少女』の題を書店で見かけた時、他人が近寄れない深い孤独を予感して手に取った。大抵の場合こうした予感は裏切られて残念に思いながら本を戻すことになるが、ごく稀な幸運に恵まれたとき、まるで予感にぴったりと当てはまる内容の作品が見つかることがある。『海に住む少女』はまさしくそうで、内容を見て驚きと共に購入を即決した。

 作者シュペルヴィエルのことは全く知らなかったが、偶然一緒に買ったJ・L・ボルヘス『伝奇集』(鼓直訳、岩波文庫)の2番目の注にシュペルヴィエルが出てきて驚いた。ボルヘスはアルゼンチン、シュペルヴィエルウルグアイに縁のある作家で、いずれもアルゼンチンの文芸誌「スル」に寄稿したらしい。

〇最後に
 その気は無いが、もし自分が小説を書くなら、いくらか色々読んだ百合小説よりも、もっと孤独に振り切ったものになるかな、と考えることがあったので、「海に住む少女」を読んでまさしくこんな感じだと思い、ますます自分で書く理由はなくなったなと思った。要は自分のための作品だと思ったということです。読めて良かったと思う。他の短編も良かった。

以上