言の葉の書き上げ

書き上げました

犬(とにかく千文字を目指して10/9)

一番いいのは、自らを物語の中に位置付けることだろう。物語の中からなら明日を信じることができる。過去があり、その帰結として今があり、そしてそこから未来へと臨む。歴史があってビジョンがある。空間を貫く時間という縦軸は世界が先へと動く振る舞いそのもので、物語はそこにもうひとつ細く曲がった串を刺し、新たなパースペクティブをもたらす。そして古典力学のビリヤード台から球をひとつ浮かせ、意志の力で枠の外へと跳ばすのだ。その先は計算不能の混沌で、しかしまた串の先端が先へと向かって進み続ける。

わたしの物語はとっくにつぶれている。最早未来はない。折れた串で苦労して台を跳び出してみてもまた別の台の上、おもしろみのあることはなにもなく、いつのまにか見慣れた穴の中に落ち込んでいる。穴からどうにか跳び出しては、隣の似たような穴に落ちる。串と言うより不揃いで気まぐれな何かの縫い目のように、休み休みに跳び上がっては先かどうかもわからない方向に転がっていくのを繰り返している。それでも跳び続けるしかない。歴史か、ビジョンか、どこかで垣間見たはずの台の外を求めては、見慣れていて居心地の悪い新天地へと至る。そして休む。何も追わず、何にも追われず、物語も遠ざけて、寛いだ時間を過ごす。穴の中は毎秒が似ていて、しかし決して重ならない。回転しながら落下する時計の秒針のように、すべてを置き去りにして休み続けたい。
糸は針から引き抜かれて、遥かかなたで揺らいでいる。何もかもが外れていき、言葉の定義もわたしの座標も不確かさの中へと漂い出していく。しかしそれらは消えはしない。抜糸後の傷跡は醜く膚に貼りついて、それでもいつしかぼんやりくすんで何かの勲章のようにも見える。狂おしかった程の痛みはプライドの一部に吸収されて、そして新たな傷が創られる。球の表面を這う縫い目はくねくねしながら始まりと終わりが繋がっていて、少年の下手くそなピッチングで球はフェンスを越えて跳び、グラウンド外の草むらに隠れる。少年は探すのを諦めて家へと帰り、置き去りのままになった球を野良犬がもてあそぶ。犬がくわえた拍子にできた球の穴に、一匹の虫が巣を作る。特殊な毒を備えた虫は近寄ってきた犬を刺し、犬はとある悟りを得て走り出す。周囲の草むらの他にも公園裏の薮などを巡って犬はありったけの球を虫のもとに集め、その中には新たに卵が産み付けられる。子供の遊ぶグラウンド近くに虫がいては危ないからと駆除をしに来た人間を、犬は追い払おうとするも網によって捉えられ、保健所へと送られる。清潔な服を着た人間が注射器を刺してから薬を押し込むまでの一瞬、犬の中で虫に刺されたあの瞬間がフラッシュバックする。新たなあるじを得た痺れるような感覚。何かの一部になったように一心不乱に道を駆けて球を集めた時間。あのすべてをまた繰り返すのだと静かに確信する。そして人間の親指が薬を押し込む。犬はそれを受け入れる。
犬のからだは動いていたときの形を保ったまま、処理業者に引き渡される。丁重に犬を運ぶ人間の首筋には、何かに刺されたような小さな穴がある。