言の葉の書き上げ

書き上げました

日記(寝不足ライブ)

 今日はライブに行ったのだが、昨日youtubeでひたすら音楽を漁ったりバーバパパ(動画投稿者名)を見たりして謎の夜更かしをしてしまったため寝不足だった。会場に入る前にコンビニでストロングゼロのロング缶とカフェイン200mgの缶コーヒーを買い、近くの広場で全部飲んだ。この飲み合わせは初めてで昼食を食べた後だったこともあり吐きそうになったが、近寄ってくる鳩を眺めながらどうにか耐えた。その後は気分がよくなって、会場入りの待機列に並んでいる時は頭の中で考えていることがラップになるという体験したことのない状態になって楽しかった。過ぎ去りし時代の偉大なるロシア 思い出の中でじっとしててくれや。結果としてそんなに悪くないコンディションでライブに参加できたと思う。ちゃんと寝た方が健康的だろう。
 行ったのは電音部シンサイバシエリアの1stライブだった。電音部関係ないけど何といってもDJでD.wattさん本人がかける粛聖!! ロリ神レクイエム☆が聞けたのが嬉しい。ロリ神の曲中でも使われているヴェルディ《レクイエム》「怒りの日Dies irae 」の原曲クラシックが流れたところで完全に来ることがわかって勝確だった。死ぬ気でコールしたし、そこでこちらの声が温まった状態でアキバエリアの飛び込みライブになったのも完全に良かった。あとDJでシンオオクボエリアが何回か流れてその度すごい盛り上がってたのが印象に残ってる。ストーリーがほぼ不明で文脈もわからないまま楽曲がクラブをぶち上げてるという今の状態も悪くない。楽曲の強さが存在証明になっているというのはかっこいいことだ。その後のアキバ、シンサイバシのライブ。爆裂タウマゼインはかかった途端無条件に叫んでしまうしもうバカになってる。アキバ20XX聞けたの嬉しい。桃源郷コンダクターも楽しかった。メタモルフォシスもだけどリリースはまだなのか。シンサイバシはライブ映えする曲が多いなと思うし、MCはともかく自エリア楽曲のライブパフォーマンスはかなりこなれた印象で、しっかり盛り上げてくれてるなと思った。イベントはアニクラDJとアイドルのライブを一つにまとめたような感じで、多分エリアミーティングもこんな感じだったのかなと思うけど、電音部っぽい雰囲気がとても良かったと思う。

キム・オンス『キャビネット』(加来順子訳) 感想

 公営研究所で事務職に務める主人公の男は業務が無く退屈に耐える日々を送っていた。暇つぶしに資料室のキャビネットにかかった4桁のダイアル錠を総当たりで開けてみると、中のファイルはあり得ない特徴を持った人々〈シントマー〉についての記録だった。主人公はこれを読んだことを機にシントマー研究者クォン博士から無理矢理助手に任命される。
 イチョウの木が体から生えた男性や、意図しないタイミングで時間跳躍をしてしまう人物など、本作はこのシントマーについての記録に、シントマーたちと面談する主人公の生活を織り交ぜて物語が進行する。奇妙な人々の様子がユーモラスに語られ、またそんなシントマーたちの有り様からところどころで現代社会の歪みも伺えてくる。
 「何かいかれた本が読みたい」と本屋をさまよっていた時、翻訳書の棚に刺さった背表紙のタイトルで「奇妙なものが収められたキャビネットの話だったらいいな」と手に取ってみたこの本は完璧な大当たりだったし、さらにそれを大きく超えてオールタイムベストの一冊と言ってもいいほどになった。
 本作においてシントマーたちの奇妙な有り様は当然魅力のひとつではあるけれど、一方で主人公についての物語の比率もとても大きく、つまり「奇妙なシントマーたちの記録を読み、シントマーたちと面談した主人公の物語」となっている。
 主人公はシントマーに対し一定の心理的な距離がある。物語の中でシントマーたちはどこまで行ってもファイルに収められた記録、主人公の面談相手として現れ、それ以上の関係になることは失敗に終わる。主人公はシントマーたちと関わることに別段強いやりがいを感じているわけではなく、かといって見下していることも無い。ただシントマーたちの存在を認識し、その記録はキャビネットに収められる。
 主人公は周囲から疎まれている同僚の女性(シントマーではない)と言葉を交わし食事にも行くが、最終的に何か決定的な関係となることは無い。彼に家族はおらず恋人には過去に見限られ、新しいセックスや恋愛が生活のうるおいとなっていくことも無い。主人公のモノローグは常にイラつきとユーモアの緊張感によって保たれている。
 主人公の彼にとってシントマーに限らず他の人々は記録としてキャビネットに入ったものとなっている。「キャビネットに入れる」ということは一般社会や親密さからの疎外、関係の不在であると同時に、関係はどうあれずっと共存していた存在として知る、光を当てるということでもある。そして本作自体によって主人公の彼もまた記録されキャビネットに入れられ、他人たちと一緒になる。奇妙なものを外から眺めるのではなく、奇妙なものとともに、奇妙なものの中にある。
 本書の纏う不穏な孤独とその裏返しのヤケクソな人間愛は、この主人公を据えた構成によって単なる変人集を超えて拡張されており、強靭な普遍性、メタ性で読者に訴えかけるものとなっている。「何かいかれた本が読みたい」と思っている孤独な読者自体を飲み込むような、こんないかれた本もそうは無いと思う。

 

追記:「また作中ではシントマー同士での心理的な連帯の可能性は避けられている。」の段落を削除。当事者会みたいなのをやってるシントマーもいるのを失念してました。ただ、物語全体の方向としてシントマーの孤独が癒されていくようなものではなく、ただそのままの姿として描かれているというのは本作の特徴です。

トマトが美味しかった

父は毎週末にひとり暮らしの大叔母のところへ買い物なんかを手伝いに行っていて、今日はトマトを頂いてきた。トマトを作って売っている人に大叔母が貰ったもので、母がサラダで出してくれて、季節は違うけれど実がしっかりしていて固すぎず甘くてとても美味しかった。

気まぐれで偶然帰省してこういうことがあって、農産物と血縁によるつながりの確かさに、自分の今生きている場所を実感した。それは自分の普段暮らしていない場所でもある。

女が女に感情を向ける作品とか男女がセックスする漫画とかを読んでるうちに誰とも心から付き合えないままこの一年も終わろうとしている

 女が女に感情を向ける作品とか男女がセックスする漫画とかを読んでるうちに、誰とも心から付き合えないままこの一年も終わろうとしている。
 上に書いたようなのを読んでると結局恋愛するしかないという結論になるのだけど、いやまあ恋愛じゃなくても心の底から付き合える、適当に時間を共有できる相手がいればいいということがわかって、その事実がわかるだけわかり続けて実際そういうものを得られることはなくて、自分の脳細胞の震えだけを、狂気の足音をだけを聞き続けることになる。自分の孤独をコンテンツのせいにするような書き方は良くない。でも自分の生活にはそんなものしかなくて、だったらこういうまとめ方になるのはしょうがなくない?
 あとは今年はクラブにも行った。クラブの感想は初めて行った時に書いたこれから特に変化はない。
「無」の人間が1人で東京のクラブイベント行きました - 言の葉の書き上げ (hatenablog.com)
昨年の年末に初めて行ってからこの一年で十回くらい、継続的に行ってるけど結局だれとも話さないまま。こっちから話しかけることもないし、キャラとかコンテンツのグッズを身に着けて行ってるわけでもなくて他の人から話しかけられることも無い。それでもクラブに行くのはやっぱりこれに書いてる通り楽しいから。電音部をクラブで聞きたいし。
 クラブ行きだしてから、五千円のシャツを買ったり、シャツのシワを取るために持ってなかったアイロンを買ったり、明るい色のスニーカーを買ったり、コンタクトレンズを作ったりした。まあ服なんてどうでもよくて、服を気にしてクラブ行けないくらいだったら気にせず行った方が良くて、アニクラなんて客は大体オタクだし、ジャージとかサンダルとかNGのだけ避ければそんなに浮くようなことはないと思うけど、いやこれも自分の関心の無さでそう感じてるだけで本当はどうなのかよくわからないけど、まあそれはいい。とにかく自分はクラブ行きだしてからちょっとでもまともなもの着ていきたいなと思って一応そろえてみた。
 で、服装を自分なりにそろえたところで別に誰に話しかけられることも無くて、最近はマッチングアプリを始めることを考えるようになった。もうやるしかなくない?色々調べてると自撮りをアイコンにするのは良くないらしくて、それ用の写真を誰かに撮ってもらいたいと思っているけれど、頼めそうな知り合いは大体遠くにいて、声かけてみても年末年始は忙しいとのことで、どうしようかなと思っているのが今の状態。アイコンが自撮りかどうかなんて本当は多分どうでもよくて、誰かにアプリを始めることを話して自分を勇気づけたいんだと思う。
 今までひとりで生きていくタイプの人間です、みたいな面で人と接してきたのでアプリを始めると言ったらどんな顔されるのかわからない。実際のところはこいつ今更かよ、まあ頑張れや、みたいな感じだと思う。こういうこと勝手に想像するのも失礼なことではある。というかその「頼めそうな知り合い」ともっと誠実に付き合えよというのがまずある。ひとりで生きていくタイプの人間です、みたいな面をやめろ。尻尾を振れ。もっとこっちから話しかけろ。相手が何かをさらしそうな雰囲気があったらちゃんと踏み込め。こっちからも自己開示しろ。何が好きかちゃんと話せ。百合作品がどれだけ素晴らしいかとか語れ。エロ漫画が決まったレギュレーションでどれだけ豊かに発展しているかとか説明しろ......。……いやいきなりそんなこと話しだすのはキモイだろ冗談じゃないみっともなくてやってられないしそもそもできない。……だったらひとりで黙って死ね。......いやそういうわけにもいかないし......。というか大学でそういう話してる人周囲にいてもなんかもうただ死ねよとしか思わなかったし趣味の話好きじゃない気がするし人と話しててもつまんないしでもひとりでいるのはもっと最悪でコンテンツは持続的な救いにはならなくてそこに未来はなくて一方通行でひとりで見上げているだけででもそれしかなくてそうじゃないコンテンツをきっかけに生活を豊かにしている人はいっぱいいてTwitterにはそんな人が大勢いて自分はそうはなれなくてなりたいとも思わなくてでもそうなれればもっと楽しくなれるはずででもどこにも踏み込むことはできなくて創作意欲も無くて人とやりとりしたいと思えなくてでもひとりで気が狂いそうで自分以外の全員にもう黙って死ねよとしか思えなくてそんなことしか考えられない貧しい内面だからだれとも付き合えないんだと思うけどもうどうしようもなくてそもそも高校で鬱で不登校になってからもうずっとそこから抜け出せないまま十年くらいが過ぎててそれでもいままでどうにか生きてきて大学も入学から卒業までストレートで行けたし正社員で会社勤めもできているし仕事はあやしいこともあるけど首にはならずにやめずに続けているしまだ若いし健康だしどうにかなるはずだろどうにかマッチングアプリ始めて相手の趣味の話を適当に聞いたり当たり障りのないこと話したり一緒にいて楽しいってことをどうにか示して付き合えるようになればどうにかなるはずいやそれ本当に楽しいのか休日とか金がどんどんなくなってそれは別にいいかいま休日も金もあったところで有効に使えてないんだからというか本当に他の手はないのか目の前にはインターネットがあってこれを使えばだれにでも話しかけることができるいや知らない人に話しかけるのとか絶対いやだろネットの人間は趣味の話しかしたがらないし自分でそういうひとばかりのところを眺めていてでも自分はそんなに趣味の話はできなくてだからもうここではどうにもならなくてそれでもTwitterを眺めて時間を使うのをやめられなくて全員黙って死ねよとしか思わなくてでも誰かに何か反応してほしくて見てほしくて話しかけられたくてこんな文章まで書いてでもこんな文章読んでなんか感じてるようなキモいやつに話しかけられたくなくてダルいやつに話しかけられても何にもならなくてそれは嘘で傷ついた人がもしいたら謝りたくて誰でもいいから話しかけてほしくて誰か助けてほしくてでも助けられるわけなくてなんかもう疲れたし他の場所に行きたいなと思っても自分の気持ちを解放できる場所なんてなくてだからもうマッチングアプリを始めるしかなくてでもアイコン用の画像が無くて撮ってくれそうな人も捕まえられなくてその前に誰かが呼び止めてくれればどうにかなりそうででもどうにもならなさそうで実際どうなのかはもうなにもわからなくて何も起こらなくて狂いそうで外へ出て大声で叫び出したい。

 そんなことを考えているうちに一年が終わろうとしている。今年の最後に読んだのは入間人間『私の初恋相手がキスしてた』だった。破壊的な力のある作品で、強い影響を受けたと思う。徹頭徹尾百合小説で年齢制限のない作品だからこそこれほどのものになっているのだと感じる。映画の『JOKER』がピンときそうでこなかった人とかは読むといいと思う。クライマックスにふるえ上がってほしい。入間人間の文章は世界で一番美しく、未来へと生きていく力強さがある。この小説を読んだうえでこんなナヨナヨした文章を書いたのが恥ずかしくはある。
 あとkomifloを過去から追い上げて読んでいたのが2年かけてようやく最新まで追いついた。komifloというのはエロ漫画のサブスクのことです。最後は一日に雑誌5冊分とかを読んだので途中から体がつらくなってくるがそれでも読めるのですごい。そんなに読みまくった上で最後のフィニッシュに使ったのが本番も乳首も女性器の露出も無しでバスケ部の男先輩に女後輩5人がいたずらする内容の「1on5」(ぐりえるも)だったりする。コメントでCFNM(着衣女と脱衣男)というジャンルがあることを知る。描写としてのセックスのこと実はそんなに好きでもないのかもしれない。上手い人のやつはエロいんだけど。ファンタジーもので面白かったのはオーソドックスな異世界転生を美麗に仕上げた「ドラッヘ・フロイント」シリーズ(雛咲葉)とか、植物姦の極致「たべごろスノウドロップ」(おもち)とか。「無数」(だんれんじ)とか「風俗の受付嬢」(石見やそや)とか読むとSFタグが欲しくなる。
 自分の人生が料理ならコンテンツはその中でせいぜい調味料程度で、それ自体で栄養が得られるものではないように思う。調味料だけを舐め続けるのは不健康だろう。それでもいい調味料があれば食欲も湧いてきていい食材がほしくなるように、何かの影響を及ぼすことはあると思う。そんな影響を考慮しなくてもコンテンツには独立した存在価値がある、なんてことを言うには今のわたしはあまりにも孤独で不幸で、だからコンテンツから先に進む必要がある。

最後のどうでもいいこと
  この文章を書きながらSpotify(音楽のサブスク)でずっと適当なDJ Mixを聞いていた。DJ Mixで検索して出てくるやつ。Spotifyに入ったのは電音部がきっかけ。電音部は本当にいろんなきっかけをくれる。

ゼノブレイド3メイン・サブストーリーで感じたことについて

前回

日記(ゼノブレイド3を遊び終えて) - 言の葉の書き上げ (hatenablog.com)

 

前回で書き切れなかったこととか書く。性規範の批判とかサブクエストいいよねとか。

 

 

 自分が異性愛生殖規範的な考えが受け入れられないのもあって、シティについてからのあれ、保守国家が小学生向けにやるぬるい性教育みたいな下りが本当にキツかった。序盤ごろからそういう展開が来るんだろうと予想はしてたけどそれでもキツい。この辺は前回でも書いたけど、男女で愛し合い子供を残すのが自然って、それはメビウスによって歪められてるアイオニオンの兵士の生き方に比べればそうかもしれないけど、でも人間ってそうじゃない人もいるわけでしょ。そういうフォローがどこかにあるかなと思ってたけど結局無かったと思うし。問題の核心は性的少数者の描写が無いことというよりはマジョリティ的な在り方をそのまま世界の自然な在り方として描いてたことかな。あとアイオニオンの兵士はほぼ男女平等だったと思うけど、子供を生み出すシステムの中の絶望的な男女不平等性とか、ショックじゃないんだろうか。そういうテーマがセンシティブだからゲームでは扱えないというのならこのアイオニオンの世界で「命をつなぐこと」なんてテーマを語るのがそもそも無理だと思う。子供騙しでしかない。

 あれに比べればエンディングの写真は脱規範的に好きにしてる感じでまあいいじゃんとまで思う。一番良かったのは最序盤の風呂でユーニがノア、ランツと普通に入浴してるところ。あの景色が失われるのはもったいないと思う。みんなで仲良く風呂に入り続けてほしい。

 10年の戦いだけの生を生きるアイオニオンの兵士がただ決められた「自然」へと必然的に変わっていくのが悲しかったし、かれらなりの自由を得てほしかったと思う。コロニー30の技師がシティから来たおばあさんが一番尊敬できる人だから結婚したいって言ってたところとか真面目にすごい良かったよ。兵士たちにはただのわたしたちと同じような人間になるんじゃなくて、ゆりかごから生まれて若いまま300年くらい生きるようになったりとかしてほしかった。まあでもそんな期待を押し付けることもメビウスがやってたようないびつな事なのかもしれない。そもそもアイオニオンは最後には消えるんだし。

 

 あとシャナイアについて、あの最期、ゴンドウがモニカについて話すところ、あれはありえなくない?母親との関係で苦しんでた人間の最期に示されるのが、結局親子の信頼関係の可能性でしかないって、あんまりだと思う。ケヴェスキャッスルに絵画を描いてる兵士がいたし、シャナイアがメビウスになってからでもそういう人と出会ってシティの外で自分らしく生きていく可能性はあったはずなのに。親との関係にとらわれているのなら親から距離をとることが自由に生きるための道になるはずなのに、作中では親子関係はとにかく絶対的なもので、シャナイアの絵画を褒めるのも結局作中ではすでに亡くなっている父親で(ゴンドウも褒めてたけど)、これは先の「男女が愛し合い子供を残して命をつないでいる」というテーマとも絡んでると思うけど、この作品の限界を(アイオニオンの世界の、ではなく)すごい感じたところだった。その限界の中で描かれる悲劇に殉じたのがシャナイアというキャラクターだったと思う。

 

 というか本作男女前提に見えて男女の恋愛描写があんまり上手くないんだよな。ノアとミオは流石にわかるけどかばってたところとかはただ仲間として守ろうとしてるように見えるし、ユーニとタイオンとか、ランツとセナとか、相棒としてとは別の、恋愛的な含意があったかは微妙なところに見える。タイオンはまあ意識してるのかなと思うけど。男女のバディものとしては良いと思います。

(ゼノブレイド2のニアの告白はすごい良かった。あれくらいはっきりしないとたとえ男女の組でも恋愛感情は読み取りにくいですね自分は)

 関係の描写が一番よかったのはアシェラとユーニですね。あれはマジで良い。真正面からぶつかっていくユーニが自分とアシェラの同じところと違うところに気づいて、最後まで一緒に行こうとするの、ほんとによかったと思う。あとユーニがメリアのことを理解しようと長く生きた人間に話を聞いたり、距離をとろうとするメリアにユーニが「嫌だ!」って詰め寄るところ凄い良い。メリアのクラス継承者がユーニじゃなかったの納得いかない。

 

 サブクエストとかコロニーは大体どれも良かったですね。コロニーミューの小学校の教室っぽさとかあんまり創作物で見かけないリアルさがあって凄かったし、かわいくて好き。あそこに混ざってたイチカ絶対楽しかったと思う。ランツが「ひねくれてんじゃねえぞ」というのはそれはそう。あとコロニーイオタの情報とか物資の戦略がかっこよかったし、若くて有能なニイナを副官たちが気にかけてたのも好き。それとコトリがすごいかわいい。コトリの声優はコロニー15のノポンとか他のNPCも何人か担当してたと思うけど、あの声が聞こえる度に幸せになってた。コロニー9の農業とか、コロニー0のみんなの名前とか、どのコロニーも思い出深い。トライデンの器がデカすぎて適当なところ好き。結局アイオニオンという世界のことがとても好きになったと思う。だからこそ最後に消えたの本当になんだったんだろうと思う。それについての気持ちは前回でまとめた。

 

以上

日記(ゼノブレイド3を遊び終えて)

  ゼノブレイド3を遊び終えてから何もする気が起きないでいる。休日の朝に目が覚めてもまず何をすればいいのかわからない。しなければならないことは色々あるけれど、それをしたからといってどうなるのだろうと思って、体を起こして手を付けるまでにずっと逡巡してしまう。こうなったのはどうしてかと言えばむしろ、ゲームを遊ぶ前は元々ずっとこうだった。何をすれば良いのかわからないのが自然な状態で、生活とはこういうものだと思っていた。
 ただゼノブレイド3を遊んでいる間だけは、「ゲームを遊ぶ」という確かな動機があって、ゲームの中にいくらでもすることがあって、延々と遊んでいた。美しい音楽を聞きながら広大なフィールドを仲間たちと駆けて、協力して敵を倒したり言葉を交わしあったりする。個性を持って生きている人に出会って、悩みを聞いて力を貸したり、暮らしの様子を垣間見たりする。寄り道もしつつストーリーは進み、やがて世界の謎へと迫っていく。この世界、アイオニオンとは何なのか。そして最後には結末へと至る。
 現在の自分とゼノブレイド3を遊んでいた時の自分、どちらが自然で自由なのだろうか。何をすればよいかわからずただ茫然とする自分と、先を見据えて次にするべきことにひとつずつ手を付けていく自分、主観的な実感では後者の方がずっとまともで、あるべき姿だったと思う。自分のあるべき姿の可能性を、ゲームを終えて、元に戻ってから思い返す。自分の求める自由な在り方はゲームの中に存在していた。私はゲームの中でしか本当の姿で存在できないのだろうか。アイオニオンでしか生きられなかったメビウスのように。

 

 ストーリーの最後、アイオニオンが消えて旧世界の時間が動き出したのはなぜだったのだろう?メビウスを倒し、オリジンを取り戻すことでそうなることが世界の仕組みとして必然であったというのなら、質問を変えて、なぜ主人公たちはアイオニオンが消え去ることを肯定的に受け入れていたのだろうか。主人公たちが目指したのはメビウスの支配の無い、戦争の無い世界で長く自由に生きることだったはずだ。そしてそうした世界の萌芽は、解放後のコロニーやシティの景色としてアイオニオンの世界の内に確かに存在していた。ならば、「アイオニオンが消えて旧世界の時間が動き出す」という結末は主人公たちの求めていたものとは異なっていたのではないのか?エンディングの主人公たちには確かに別れの悲しみがあったけれど、世界が消え去ること自体は受け入れていたように思える。エンディングのゴンドウのセリフ等は、この結末を肯定することありきに思えてキャラクターの破綻を感じなくもない。なぜ主人公たちは何も知らない旧世界を受け入れたのだろう。アイオニオンという世界の結末がその消滅を受け入れられて全てが元通りになるだけだったのならば、アイオニオンというあの広大な世界は一体なんだったのだろう。それは未来へ進むための踏み台のようなものなのか。ならばその世界を冒険して、その中で自由を感じていた自分はなんだったのだろう。そしてそれを終えた今の自分はなんなのか。何もする気の起きないこの生活はゲームを遊んでいた時より自由なのだろうか。

 自由な世界で生きることとはなんなのだろう。世界が自然に進んでいくこと、その中で生きることは本当に自由なんだろうか。
 ストーリーの中盤、シティにたどり着いた主人公たちが目にする希望は、「長く生き、男女が愛し合い子供を残す」というものである。それが人間本来の在り方として説明される。10年の生を戦いの中で生きるしかないアイオニオンの兵士たちにとって、このような在り方が未知の希望として表れるのは理解できる。
 この「人間は男女で愛し合い子供を残すのが自然な在り方」という希望は、しかし現実では人々の生き方や身体の自由を奪うイデオロギーともなっている。


同性婚を認めないのは「合憲」 大阪地裁判決 - BBCニュース
米連邦最高裁、人工中絶権の合憲性認めず 重要判決を半世紀ぶりに覆す - BBCニュース


 こうした点への配慮無しに「男女が愛し合い子供を残す」ことを個人の選択を超えた世界の希望として提示することは、例えるなら原子力を夢のエネルギーとして描きながら放射線の危険性や防護について何の言及もしていないようなもので、考え無しの子供騙しだろう。
 しかし、アイオニオンは消え、ゲームは終わったのだ。偏狭なイデオロギーに縛られない、自分なりの自然な生活を送る自由がある。きっと最後に復元した旧世界もそうなのだろう。そう、自由がある。自分には何もしない自由がある。ただやるせない自由が。何をすればよいのだろう。自分にはヨランやシャナイアのように芸術や創作活動へのあこがれもない。今の自分はなんなのだろう。そして本当に、このゲームを遊んでいた時間はなんだったのだろう。

 

 このゲームを遊んでいた時間、アイオニオンという世界についてどう考えればいいのだろう。それはただ終わって消えていくもの、次に進むまでの踏み台で、子供騙しに過ぎないならば、その中で過ごした時間、そこで感じたものはなんだったのだろう。
 その答えを示すカギをゲーム中から見つけるとするなら、おそらく「おくる」ことだと思う。アイオニオンという世界、そこで過ごした時間はきっとおくられるべきなのだろう。有限の、ただあるがままの存在として認めながら、そこから何かを引き継いで生きていくこと。おくることは当然殺すことではないし死ぬことでもない。その場所での自分は確かに普段よりは自由を感じていた。ならば外の世界へとその自由を押し広げていける可能性はある。その可能性の根拠のひとつとして、アイオニオンという世界のことを、そこでの体験をただ思っている。クリスやヨランの不可解な笑顔の意味を思い続けたノアのように。おくることは未来へと生きていくこと。私はそれを本作から受け取った、本作へとおくる言葉とする。

 

続き

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ルインズメイガスがすごい良い感じ

ルインズメイガスは本日発売のVRゲームです。

日本産のアクションRPGで魔法を使って戦う。

今はとりあえずお茶の葉を取りに行くところまで終わりました。

 

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 遊んでみて、すごい良い感じです。ノーマルモードで最初の戦闘でいきなり一回倒れたときは、もしかしてこのゲーム激ムズか?となりましたが、戦い方の基本がわかってくると自分のやり方で戦える感じになっていく。しつこいくらい壁に浮かんでる操作説明も序盤は操作覚えるのに助かります。自分の手から魔法を放てると楽しい。

 何と言ってもVRですよね。例えば金持ちのボンボンの護衛にすごまれるというようななんてことないシーンでちょっとビクッとなってしまった。普通のゲームだと、あーはいはい、くらいでスルーなんですが、そういう新鮮さもやっぱりうれしいです。広場や街でいろいろ眺めるのも、ここに居る感じがとてもいいです。

 そして特に面白いな、良いなと思ったのが、VRゲームと従来的なゲームそれぞれのシステムを織り交ぜてやっているところですね。ルインズメイガスでは回避、パリィの操作はボタンになっています。以前にVRアクションゲームのソードオブガルガンチュアを遊んでいたんですが、そちらでは回避は頭を傾ける、パリィは盾を突き出す、というモーションでの操作になっていました。ここら辺は好みだと思いますが、ルインズメイガスのボタン操作はパリィのしやすさ等ゲーム的に戦闘を楽しめるようバランスが取られている感じがあり、自分には合っているなと思いました。この辺りの感覚はこの先も色んなVRゲームが出てきて遊び手が自分に合っているものを選べるようになると思うので、楽しみです。

 戦闘以外のところでも、VRゲームではあまり見なさそうなムービーのカットインがあったりもしましたが、それもちゃんとかっこよくて面白い。こういうのもありなのか、というVRゲームにおける色んな表現の黎明を感じます。あとタイトルロゴが表れるところ、あれすごいですよね。めっちゃ感動しました。没入感が強みとされるVRアクションゲームのOPであの表現が使えるって見出したのは相当切れてるんじゃないですか。すごい良かった。

 これから先を遊ぶのも楽しみです。

 

以上