言の葉の書き上げ

書き上げました

日記(ゼノブレイド3を遊び終えて)

  ゼノブレイド3を遊び終えてから何もする気が起きないでいる。休日の朝に目が覚めてもまず何をすればいいのかわからない。しなければならないことは色々あるけれど、それをしたからといってどうなるのだろうと思って、体を起こして手を付けるまでにずっと逡巡してしまう。こうなったのはどうしてかと言えばむしろ、ゲームを遊ぶ前は元々ずっとこうだった。何をすれば良いのかわからないのが自然な状態で、生活とはこういうものだと思っていた。
 ただゼノブレイド3を遊んでいる間だけは、「ゲームを遊ぶ」という確かな動機があって、ゲームの中にいくらでもすることがあって、延々と遊んでいた。美しい音楽を聞きながら広大なフィールドを仲間たちと駆けて、協力して敵を倒したり言葉を交わしあったりする。個性を持って生きている人に出会って、悩みを聞いて力を貸したり、暮らしの様子を垣間見たりする。寄り道もしつつストーリーは進み、やがて世界の謎へと迫っていく。この世界、アイオニオンとは何なのか。そして最後には結末へと至る。
 現在の自分とゼノブレイド3を遊んでいた時の自分、どちらが自然で自由なのだろうか。何をすればよいかわからずただ茫然とする自分と、先を見据えて次にするべきことにひとつずつ手を付けていく自分、主観的な実感では後者の方がずっとまともで、あるべき姿だったと思う。自分のあるべき姿の可能性を、ゲームを終えて、元に戻ってから思い返す。自分の求める自由な在り方はゲームの中に存在していた。私はゲームの中でしか本当の姿で存在できないのだろうか。アイオニオンでしか生きられなかったメビウスのように。

 

 ストーリーの最後、アイオニオンが消えて旧世界の時間が動き出したのはなぜだったのだろう?メビウスを倒し、オリジンを取り戻すことでそうなることが世界の仕組みとして必然であったというのなら、質問を変えて、なぜ主人公たちはアイオニオンが消え去ることを肯定的に受け入れていたのだろうか。主人公たちが目指したのはメビウスの支配の無い、戦争の無い世界で長く自由に生きることだったはずだ。そしてそうした世界の萌芽は、解放後のコロニーやシティの景色としてアイオニオンの世界の内に確かに存在していた。ならば、「アイオニオンが消えて旧世界の時間が動き出す」という結末は主人公たちの求めていたものとは異なっていたのではないのか?エンディングの主人公たちには確かに別れの悲しみがあったけれど、世界が消え去ること自体は受け入れていたように思える。エンディングのゴンドウのセリフ等は、この結末を肯定することありきに思えてキャラクターの破綻を感じなくもない。なぜ主人公たちは何も知らない旧世界を受け入れたのだろう。アイオニオンという世界の結末がその消滅を受け入れられて全てが元通りになるだけだったのならば、アイオニオンというあの広大な世界は一体なんだったのだろう。それは未来へ進むための踏み台のようなものなのか。ならばその世界を冒険して、その中で自由を感じていた自分はなんだったのだろう。そしてそれを終えた今の自分はなんなのか。何もする気の起きないこの生活はゲームを遊んでいた時より自由なのだろうか。

 自由な世界で生きることとはなんなのだろう。世界が自然に進んでいくこと、その中で生きることは本当に自由なんだろうか。
 ストーリーの中盤、シティにたどり着いた主人公たちが目にする希望は、「長く生き、男女が愛し合い子供を残す」というものである。それが人間本来の在り方として説明される。10年の生を戦いの中で生きるしかないアイオニオンの兵士たちにとって、このような在り方が未知の希望として表れるのは理解できる。
 この「人間は男女で愛し合い子供を残すのが自然な在り方」という希望は、しかし現実では人々の生き方や身体の自由を奪うイデオロギーともなっている。


同性婚を認めないのは「合憲」 大阪地裁判決 - BBCニュース
米連邦最高裁、人工中絶権の合憲性認めず 重要判決を半世紀ぶりに覆す - BBCニュース


 こうした点への配慮無しに「男女が愛し合い子供を残す」ことを個人の選択を超えた世界の希望として提示することは、例えるなら原子力を夢のエネルギーとして描きながら放射線の危険性や防護について何の言及もしていないようなもので、考え無しの子供騙しだろう。
 しかし、アイオニオンは消え、ゲームは終わったのだ。偏狭なイデオロギーに縛られない、自分なりの自然な生活を送る自由がある。きっと最後に復元した旧世界もそうなのだろう。そう、自由がある。自分には何もしない自由がある。ただやるせない自由が。何をすればよいのだろう。自分にはヨランやシャナイアのように芸術や創作活動へのあこがれもない。今の自分はなんなのだろう。そして本当に、このゲームを遊んでいた時間はなんだったのだろう。

 

 このゲームを遊んでいた時間、アイオニオンという世界についてどう考えればいいのだろう。それはただ終わって消えていくもの、次に進むまでの踏み台で、子供騙しに過ぎないならば、その中で過ごした時間、そこで感じたものはなんだったのだろう。
 その答えを示すカギをゲーム中から見つけるとするなら、おそらく「おくる」ことだと思う。アイオニオンという世界、そこで過ごした時間はきっとおくられるべきなのだろう。有限の、ただあるがままの存在として認めながら、そこから何かを引き継いで生きていくこと。おくることは当然殺すことではないし死ぬことでもない。その場所での自分は確かに普段よりは自由を感じていた。ならば外の世界へとその自由を押し広げていける可能性はある。その可能性の根拠のひとつとして、アイオニオンという世界のことを、そこでの体験をただ思っている。クリスやヨランの不可解な笑顔の意味を思い続けたノアのように。おくることは未来へと生きていくこと。私はそれを本作から受け取った、本作へとおくる言葉とする。

 

続き

t.co