言の葉の書き上げ

書き上げました

25歳

25歳になった。

仕事は失敗しかしていない。去年の終わりごろから以前にも増して人との会話がぎこちなくなっている気がする。役割を果たすということに辟易している。

24歳が終わったことに少しショックを受ける。いろいろな段階が既に終わっていることにやや愕然とする。二十代前半も、新卒1年目も、大学時代も、高校時代も、それ以前も、全てがもう終わっている。何もないままに。個別のコンテンツの思い出があるだけで、人生としては確かに何もなかったという感じがする。人生というのがよく言われているほど絶対的な概念ではないのではないか(「1年」が連続的な時間を恣意的に区切ったものに過ぎないように)と考えたのは大学時代だったと思う。

どうにかしたいとは思うけれど、何かをしようとは思わない。未来に何のビジョンも持つことができない。世界に価値を見出だして生活を意味あるものにしていく内的な力が失われてからもうずいぶんになる。病的な無気力の霧に全ては覆われていて、このままいつか終わりか破滅が訪れるのだろうか。

先ほど、良い一年になりますように、と親からメッセージがあって、嬉しいけれどにがく苦しい気持ちになる。24歳は別に良い1年ではなかった。これからがそうなる見通しも特に無い。嬉しいことがあって笑っていることがあったとしても、自分はずっと不幸だったと主観的に評価する。

そもそも何が起これば「何もなかった」ではないと言えるのだろう。どういう意味付けができれば現在について悪くないなどと思えるのだろう。一般に言われているようなことはそれほど魅力的に思えない。そう思うのはそれを実際に体験して無いからだろうか。それが可能かどうかはわからない(難しいだろうとは思う)けれど、魅力がないなら無理に体験することも無いだろう。私は狂っているので、目指すのはそこではない。

新しい意味付けの方法を、使えるものを使って(使えないものは使わずに)自分のやり方で見つけ出す。そのやり方がどれほど拙くいびつで無様でも、死ぬ気でそうするほかない。それの他にやることがない。

24歳もずっとそんなことを考えていたような気がする。これからも方向性は特に変わらない。要望があるとすれば、ドーパミンやらセロトニンやらオキシトシンやら、そういう物質の分泌が増えるといい、つまり幸福な、良い1年であればいいと、そんなことしか、今は思いつかない。

 

明日は月曜日なのだけど、たまたま午後からの出社の為、深夜の今に少し時間が持てている。