言の葉の書き上げ

書き上げました

広い世界を手に入れる

僕が求めて止まない「広い世界」とはそもそも何か。

広い世界に必要な要素は大体以下4点になる。
・ミクロとマクロの視点
・十二分な情報量
・全体がひとまとまりになるイメージ
・詩情、超越性

・ミクロとマクロの視点
「広い」というのは相対的な尺度に過ぎない。人間には窮屈な1立方メートルの広さでも、微生物にとっては広大な空間となる。2つの視点の倍率の差によって「広さ」が表現される。

・十二分な情報量
広い世界は豊かな世界でもなければならない。情報量を十二分、としたのは、人間の普段の認識をはみ出して、好奇心をかきたてるような情報(量)が必要ということ。世界の中は見るに語るに値する物事で満たされている必要がある。これはひとつの情報の解像度の高さの問題でもあるし、文脈の量、つまり記述の多さの問題でもある。
解像度×文脈量=情報量。
ちなみに、情報量を考える上では可読性も重要になる。可読性が高いと多くの情報を効率よく蓄えることができるし、可読性の低すぎる世界はそもそも放棄される恐れがある。これは余談ではあるが、自然科学分野においては可読性の語は測定精度の高さ、有効数字の細かさを意味するようになる。

・全体がひとまとまりになるイメージ
バラバラの要素をいくつも並べて情報量を増やしても、それがひとつの世界であるとは言えない。ペットの猫の可愛らしさと、おとめ座銀河団の構造を並べてみても、しょうがない。なにかつながりや関係性によるまとまりが必要になる。さっきの2つなら、宇宙空間中の物質の濃淡から宇宙の大規模構造が生まれ、それによっておとめ座銀河団局部銀河群、銀河系、太陽系が生まれ、生物の存在可能な条件が整って人や猫が存在する、とか、単に猫の鳴き声がvirgoと聞こえた、とかでもいい。

・詩情、超越性
つまりは、想像の余地。これがないとどれ程情報量があっても、ああそうですかだからどうした、で終わる。


これら4つは独立しているのではなく、相補的である。何かにフォーカスすることは解像度を上げて情報量を増やすことになるし、逆に視野を広げることで孤立していた情報同士をひとつにまとめ上げることができる。詩情や超越性はこうした動きの一つひとつに活力を与えつつ、世界の広がりによってその深みをさらに増していく。広い世界とは、こうした複雑な営みを持つひとつの系のことを指す。当然、広い世界でないものが存在してはならないなどと言うつもりはない。それでも結局僕が欲しいのは、広い世界である。

ここまで読んで、つまりはこの世界、この宇宙こそが広い世界であり、それはなんと広いのだろう、と思ったかもしれないが、そうではない。考えてもみて欲しいが、寧ろこの世界の狭さに一旦絶望でもしなければ、わざわざこんな風に広い世界について語るなんてことは、しない。この世界にはまとまりはないし、詩情や超越性は蒸発しかかっている。情報量の膨大さはさすがに認めるしかないが、可読性、取っ組みやすさが低いのにはいつも憂鬱にさせられる。そしてこの世界がどういう意味であれ僕のものになることなど、決してないだろう。この世界にいて尽きることのない「ああそうですかだからどうした」という虚無感を、持続的に葬るために、他に広い世界が必要になる。説明の中で、可読性や詩情、超越性といった、やたら主観的な要素が出てきたのは、この「広い世界」概念は、僕がそれを手に入れることを意識して考案した物だからということになる。それはオープンワールドゲームかもしれないし、一冊の小説かもしれないし、何かの学術体系かもしれない。今まで手に入れたこともある。いくつも手に入れてきた。

ひとつの小さな広い世界の例を挙げる。以下は、広辞苑第六版のみず【水】項の意味①。

酸素と水素との化合物。分子式H2O 純粋のものは無色・無味・無臭で、常温では液状をなす。1気圧では、セ氏99.974度で沸騰、セ氏4度で最大の密度となり、セ氏0度で氷結。動植物体の70~90パーセントを占め、生存上欠くことができない。全地表面積の約72パーセントを覆う。万葉集(17)「片貝の川の瀬清く行く―の」

この程度でいい。流石に情報量の点ではこの文字数では到底足りないけれど、それでも水という語の意味を説明するだけのこの文章の質感の広さは、一瞬だけであっても確かに、この世界を遥かに越える。

広い世界は憂鬱な認識の限界から人を解放し、自由にする。「ここ」ではないどこかの存在を心強く知らせてくる。僕は広い世界が欲しい。