言の葉の書き上げ

書き上げました

黙っていることについて

私は7年前からずっと、死にそうなくらい憂鬱でした。

こう書いてしまうと、実際は不正確です。7年前から暗い性格になったのは本当ですが、そのことで本当に死にそうになったことはありませんし、喜ばしい気持ちの時だって何度もあったはずです。「死にそうなくらい」なんてよくある慣用句だと割り切ってしまえばよいのですが、私にはどうにも気になります。そこでもっと精確になるように訂正しようとしてみると、私は「7年前ではなく6年半ほど前から」「ずっとではないが多くの時間が」「表情が動かなくなるくらい」憂鬱でした、などとなります。いくらか真相には近くなりますが、しかしとても読みにくく、そもそもこんなことは自分で書いていてもひたすらに面倒なだけで、面白くもありません。ですから、わかりやすいように先程の文章のように書くことになりました。「わたしは7年前からずっと、死にそうなくらい憂鬱でした」。しかしこの文章は不正確です。

ここまで言うと大袈裟ですが、それでも日頃、私は自分の言動について、どこか的外れなものだと感じることが多いです。人と話しているといつも、何かを間違えているように感じます。「いいね」だとか「それは大変」だとか言っては、これは所詮建前であり内心にはもっと本当に話すべきこと、相手のためになるような返答が、別にあるように感じます。しかし上手く話そうと考え込んでしまうと間が空いて話のテンポが乱れ、そして結局何も浮かばずに適当なことを言っては、自分で言ったことのつまらなさ、非本質性に失望します。そんなことを繰り返していると、なにも話したくなくなります。人と話すのが億劫になります。そして、そのような状態でひとり頭の中で考えごとをすると、やはりつまらなくて、何が自分の本心なのかもわからなくなります。何を考えてもただ憂鬱で、これが続くと、まともに生きていくことが困難に思えます。

そして今まさに、この文章にしても、自分の本心からすると不正確なものに思えます。いくらかの事実は含まれていますが、完全にこのとおりというわけでもありません。心の底で思っていることをそのまま伝えることに、これは失敗しています。そもそも私はものを考えるとき、頭の中でこんな丁寧語で話してなどいません。「つらいな」と考えては「それほどつらくもないだろうが」と自分で返します。いつも何かを考え出しては、どこかを間違えています。内と外における自分の振る舞いの、全てが偽りです。

しかし、ひとつ間違いなく本物だと言えるものが自分の中にあります。それは、言うなれば吐き気のようなものです。何かを正しく吐き出そうとしては、それに失敗し続けて気持ち悪くなっていて、その気持ち悪さをなんとか吐き出そうとしてはまた失敗して気持ち悪くなっている、ということです。この鬱陶しく連続する感覚は、自分の核に確かに含まれています。

この「吐き気」という名前は、実は本から借用しているものです。ニーチェの「ツァラトゥストラ」の第4部、「魔術師」という章に大体書かれていることを、アレンジして持ってきています。借り物の答えで納得していていいのか、そもそもあの難解な本の内容が正しく理解できているのか、などとは思いますが、すくなくともこの本を読んでいて、この「吐き気」というものを自分に当て嵌めたいと思ったことは確かです。私はこの吐き気に苦しんで、それでいつも黙り込んでいました。

 

話は変わります。インターネットが発達し、SNSでのやり取りが盛んな今の状況について、「発信の時代」と呼ぶことができるでしょう。今や誰でも、何かを発信する手段を簡単に入手できます。ありとあらゆる人間が何かを発信しては、それを誰かに見られています。

私は、今でこそきっかけもあってツイッターもやっていますが、以前はずっと、何も発信しないでいました。なぜなら自分の中の全てが間違っているようで、発信すべきだと思えることがなかったからです。大勢の人間が鬨の声を挙げている中で、まるで自分一人だけが押し黙っているようでした。他の人のように自分にもなにか言うべきことがあるはずなのに、それが見つからないということは、自分の内に寂寥を引き起こしました。

しかし物言わぬ人間は、他にもどこかに存在したはずですし、今もおそらく存在しています。当然ですが、そのような人間は私の視界に入ることはなく、まるで存在しないかのようです。それでもきっと大勢いるだろうと、私は想像しています。そしてその人たちは、誰にも知られることなく、自分の内に何かを抱えているはずです。

私は、そのような、かつての自分のような、何も発することなく沈黙している人間の中の、決して窺い知ることのない魂の存在を、認めていたいと思います。人に何かを伝えるということの素晴らしさについては、あらゆる場所で言われています。しかし一方で、人間は黙っていてもよいのだと、私は思います。全ての人間がいつも作家やタレントとして振る舞う必要はありません。多くの魂が、だれにも知られることなく、ひっそりと存在しているということを私は知っています。あなたは私に知られる必要はありませんし、誰一人として今この瞬間のあなたを知らなくても、あなたは確かに存在しています。そのような在り方を、言ってしまえば、肯定したいと思います。たったこれだけのことを、吐き気を抱えて苦しんでいるどこかの誰かに、もしくは自分自身に伝えたくて、ここまで文章を書きました。

 

ちなみになぜ表現すること、発信することを素直に肯定する文章を書かないかというと、今まさにそうであるように、自分で文章を書くとどうにも上手くいかなくて、死にそうなくらい腹が立つからです。何かを正しく言わなければならないと思うと、次第に吐き気がしてきます。自分がどうにも好きになれないことを、肯定したくはありません。それでも、他の人間の書いた文章を読むのは好きです。これは言うまでもないことです。自分以外の人間には好きなものを好きなだけ書いていただきたいです。ただ私は何も書きたくないし、何も言いたくない。そしてそれでもいいではないか、それだけが本当に言いたかったことです。それでもいつか、心変わりして自分で表現するということを素直に肯定するようになるかもしれません。もしかしたら、まさにこの文章を公開することで、今までの苦痛がぐっと楽になるかもしれません。それでも今、確かに言いたいのは、表現するのは気持ちがいいということではなく、なにも表現していない自分を肯定してもよいのではないか、ということです。なぜなら私は7年間、何かを表現するべきだと感じながらそれができなくて、ずっと苦しんできたからです。なにも表現していない自分に目を向ける度に、自分が否定されるべき存在のようで、いつもいらだっていました。ここで、表現できなくて苦しんでいたならば、表現しないでいることこそを否定するべきではないか、と思うかもしれませんが、私を苦しめていたのは表現できない自分であるとともに、どこからともなくかかってきた「表現しなければいけない」という圧力です。これを減らすために、この文章を書きました。表現する人を励ますメッセージはネット上などにとても多いと思うので、せめてこの文章では普段決して目を向けられることのない、ただ黙している人達のがわに肩入れをしたいと思っています。何より私自身はずっと黙ってきました。私は表現者へと自分を変えるということもなく、ただ自分として存在して、そして消えていきたかった。そしてそのような自分を肯定したかったのです。しかしこの文章を書いてしまいました。まるでこのように、意見を発信していくことこそが正しい、と言わんばかりです。そうではないはずです。表現者へと変わらなければならないという圧力をかけてしまっては、この文章は根底から失敗になってしまいます。言わなければならないことなどない、無理に変わる必要はない、と言うために、この文章は書かれています。よって念を押さなければなりません。

私はあなたの目の前から消えたいです。表現も発信も、何もしたくありません。7年前からずっと、したくもないことをしなければいけない気がしていて、それで死にそうなくらい憂鬱です。きっと本来、なにもする必要などないはずです。

 

 

 

……ここからはもう少し正直に言います。私はおそらく、自分の考えを他人に知らしめたくて、この文章を書いたように思います。私自身、自分の考えが誰にも知られていないということに全く耐えられなかったということです。つまりこの文章は、何も書く必要などないという考えについて、心の底から書く必要に迫られた上で書いたものです。よって書き始めから失敗は決まっています。私が一字一句を打鍵することが、この文章の内容に反しています。私は失敗しています。

しかし、どうしても、この文章を書き上げるべきだと思いました。なぜなら、書く必要がないということについて書くということはおかしくとも、書く必要がないということについて「読む」ということは何もおかしくはないはずだからです。これを書いているこの私は完全に失敗していますが、今まさにこれを読んでいるだけのあなたには、まだ成功の余地があるはずです。いつか、どこかの誰かが、何も言わないでいるということを心から肯定することに、成功することを私は祈っています。できることなら、それが未来の自分であればよいと思います。

しかしそのような肯定が、ある人物の内で達成されたとしても、それを他の誰かが知ることは難しいでしょう。なぜなら本当にこれに成功した人物は、自らの成功を他人へ伝える必要も無いからです。真の成功者はその思考によって誰にも知られることなく黙り込み、しかし目に入る全て、目に入らない全てを肯定しています。そのような、知られざる沈黙する魂の存在こそ、まさに今、私が真に肯定したいものなのです。そこにおいてはきっとあの「吐き気」さえも、晴れやかで確かなものへと姿を変えているはずです。私はその不可知の領域へと、希望を託しているのです。