(ボカロどころか音楽そのものもほとんど聞かない人間によるゴミたいな個人的結論なので期待しないように)
AIきりたんの「キリトリセン」を思い出す度に何回も聞いている。
https://nico.ms/sm36399511?ref=other_cap_off
人間に近いことの凄さは置いといて、結局この曲を聞いたときの「良さ」はなんなのか。
他の曲とか人間のカバーとか色々比較に聞いてみたが、先の動画は
まず当然ながら
①歌が上手い
同じ曲を人間がカバーしたのを聞いた場合、上手い人はAIきりたんと同じような透明感があり、歌がすっと入ってくる。曲そのものに対する感動としてはAIきりたんと歌が上手い人間で自分の場合はだいたい同じ。これを合成音声で達成できてるのはめっちゃ凄いし、キリトリセンのカバー動画は調声も上手い。
この時点で人間との違いは声の好みくらい。
つまり
②声がかわいい
はい。かわいい。
あと実は
③曲が好き
はい。当然カバーした曲の良し悪しで感動度合いは変わる。AIきりたんのカバーを色々聞いてみたらキリトリセンはそもそもかなり自分の好みだった。
つまり
③いい曲を②かわいい声の人が①上手く歌っていることによって発生する感動
+合成音声技術への驚嘆
これが結論です。おしまい。AIシンガーへの感動と音楽そのものの感動を切り分けられたのでよかった。当然音楽そのものの感動もAIシンガーの高い技術、関わっている人達の努力でなされたものではある。
ではAIシンガーが歌っていることで曲の価値そのものが変わることはあるのか?「キリトリセン」の場合はそれはあんまり無かった。
一応ちょっとだけ感じたのは
「脳漿炸裂ガール」
https://nico.ms/sm36441498?ref=other_cap_off
歌詞の後半において肉体を持たない存在が肉体からの脱却を唆してくるような、独特のリアリティが発生した、気がする。何回も聞いてたらわからなくなったけど。
以下、全ての文の末尾に(気がする)(かもしれない)が付く。
AIきりたんには肉体どころか感情もないが、その歌声に感情は「ある」ように感じるためか、感情についての言及が多い「キリトリセン」では人間が歌う場合と歌詞の意味合いそのものの差別化はあまりされなかった。しかし歌声だけでは肉体の存在感が見えることはなく、「脳漿炸裂ガール」は「肉体」が強く言及され、さらにそれを捨て去る方へと行ったことで、肉体を持たない存在による歌としての例外的な迫力が発生した。
従来のボーカロイドにも当然肉体はないが、そちらでは歌詞をそのまま言葉として届けられて、声音そのものの気持ち良さを感じつつ聞き手自身がそこに感情の肉付けを行う側面が強い。自分の場合は歌い手の存在感をそこにあまり感じていない。
AIきりたんの場合、従来のボーカロイドよりも、「歌う者」の存在感が強く立ち上がってきた。虚無からの気持ちのこもった生歌を聞いたのはAIきりたんが初めてだった。
その他かわいいやつ
https://nico.ms/sm37829685?ref=other_cap_off
Top of The World
https://nico.ms/sm36518590?ref=other_cap_off
きりたん以前に和訳センスが良い
旧支配者のキャロル
https://nico.ms/sm36419272?ref=other_cap_off
ちなみに旧支配者の原曲英詩カバーもある
https://nico.ms/sm37572771?ref=other_cap_off
このくらいで。